加齢と普通の人になることについて

気がついたらこんなタイトルの記事を書く年齢になってしまった。このタイトルは非常にbroadなので,何を言いたいかをもうちょっと説明する。

 

オタクにしてもテックにしても,集まって何かをやったり語ったりしたことのある人は,すごく面白い人とか,いい意味でも悪い意味でも狂ったり外れたりした人を1人は見たことがあると思う。そういった人々が加齢とともに「丸くなった」「普通になった」とか言われるのを最近よく見るようになった。それを言った人がどう捉えているかは別として,私は単に寂しいな,と思う。

まあ普通じゃない人が普通の人になるという経緯はいろいろ考えられて,

  • 長くやってたからやる気がなくなった
  • 体力や精神の衰えによって面白いことをやろうとしてもできなくなった
  • 結婚したら人生が良くなったり悪くなったりした
  • 通常の楽しみでは満足できない人が異常なことをやっていたのが,新しい楽しみを見つけて自分でなにかしなくても満足できるようになった

などがあるかなーと思う。まあ前者2つについては加齢が直で効いてくるので寂しいな,となる。やる気については外野がどうこう言う領域ではない。外野は面白い行動や成果物に関心を持ってきたのであって,その人が根気をもって長年取り組んできたことには,ほとんどの人は目を向けない。長く続けることは,面白さそのものとは別の才能であり,あまり面白くないことでも長く続けている人には独特の凄みが出てくる。結婚については私は語る資格はない。

しかし最後については良い傾向なんじゃないかとも思う。最近出てきたVTuberやゲームで良い落とし所を見つけた人は数多い。私も現代の娯楽は十分に面白いと思うし,中世に生まれていたら本当に面白くなさそうで間違いなく狂人を目指しただろう。

(正直,自分で自分が関心を持てるものを作り続けないと今後厳しいと感じていた時期はあり,博士課程で研究をしている理由の一つでもある。しかし実のところ世の中は少しずつ面白い方向に行っており,この大義名分は成り立たないのでは,とも思う。もっとも,頭を使って苦労することそのものが面白いと感じる人間だったので,方向性自体は良い)

 

まあそれはそれとして,なんか違和感を感じるのは,周りが「普通じゃない人が普通になった」とあえて言うのはなんでなんだろう,ということである。私は単に納得してしまうし,「つまらなくなった」と言うのはコミュニティにつまらない人間が集まってきたりしたときである。

言っている人々の中のそれなりの割合で,「結局皆自分と同じで特別な個性なんてなかった」とか「自分も年をとったり結婚したりしてつまらない人生を送るようになってしまったが,あんな外れた人間でもそうなった」みたいな,一種の自身に対する慰めを感じることがある。

その慰めはあまり私には響かない。何か少し独創的なことをやればそれが個性になるし,何かで人と比較すれば差はついて,それも個性になる。年をとるということはそういった個性の積み重ねでもある。もっとも,それは結婚によってガラガラと全て崩れ去っていったりもするのだが(註:もちろんそうじゃない人も多く見ている)。

 

むしろ,普通になった元普通の人を見て安心している周りを見るのが,寂しいのではないか。そこに本当の加齢が見えてくる。

俺は面白い人間ではないし,年寄りにはなるしかないが,そういう年寄りにはなりたくないなあ…