障害とできることと足手まといについて

障害者になりました

 ある人の持つ医学的に理解された特性が,社会において問題となる時,その人は障害者であると言うことができると思う.相当に素朴な定義であるが.

 その意味では,私は「発達障害」と診断されながらも,実際に障害者となったのはここ最近である.それまでも,周囲の温情を賜りながらなんとか暮らせてきた.しかし,様々に状況が変わり,様々な問題を起こし,もはやそういうことを言える場合ではなくなったのだ.それゆえに障害を表に出し,障害者手帳を申請した.つまり,社会的に「障害者になる」ことを決めて実行したのである.

 今現在の印象では,障害者前と障害者後では,生きる厳しさはあまり変わっていない.「発達障害に起因する問題にどう対処していくか」ということについては,良い医師や良い友人に恵まれ,前々から議論して実践してきた.そして,障害者として自己呈示していようがいまいが,同じ状況では同じ問題が起きていただろう.特にデスマーチにおいては,健常者ですら大きな問題を起こす場合がある(もっとも今回は,客観的に見ればコミュニケーションに大きな問題は生じていたものの,状況そのものはデスマーチではなかったと考えられるのだが).

 どちらかと言うと,私が「障害者になる」ことによって,できることとできないことが変わっていくことへの不安がある.私は1年半エンジニアと博士課程の二足のわらじを履いてきた.これには強い動機がある.

障害者は絶えず能力を伸ばし寿命を伸ばさなければならない

 障害は社会との関係の中にあるため,歳を経るごとに,特にコミュニケーションに関するものを持っていると自動的に選択肢が狭まっていく.一般に歳を取れば取るほどコミュニケーションとその能力の必要性は高まる.それについていけなくなるのだ.そして,それがある境界を越えたら,そこが寿命である.

 しかし,私は少しでも長生きしたい.そのためには,自分ができることを常に考え,新たな領域に進出したり技を磨いていく必要がある.能力によってコミュニケーションを代替できはしないが,能力がなくて必要とされないのに比べたら,能力があって必要とされる方がコミュニケーションは圧倒的に楽になる.

 ゆえに様々なコミュニティに所属するに飽き足らず,博士課程に進学した.しかしながら,博士課程は1つの組織であり,引きこもって論文さえ書いていれば良いというわけではない.平均して会社のドライなコミュニケーションよりも厳しかった.ましてや二足のわらじである.そのうち大きな問題を起こしてしまうのではないか.その予想は,1年半後に当たってしまった.会社で厳しい状況になり,それが大学の活動に直撃した.それが,「障害者になる」ことを決めた第一の理由である.理不尽なことは個人に降りかかる.そして,その責任は個人が取らなければならない.

前に進むことと穏当に生きることの葛藤

 当たり前であるが,自主的に何かの能力を身に着けようとするのは負担になる.障害者には特に,葛藤に見舞われることになる.普通に生活していても問題を起こすのに何で余計なことをするのか.やらないほうが良いんじゃないか.それは確かにその通りだ.しかし,健康な人は↑に上げたような能力や分野を開拓していく切実な理由をわかってくれない.

 この二重の葛藤が,自分の首を締め付ける.私は胸を張って前に進んでいける人間ではない.しかし,前に進まないといけない事情もあるのだ.足手まといになっているのはわかっている.しかし,将来足手まといにならないために,今できる範囲でもっと足手まといになる必要がある.しかし,その結果大きな問題を起こしてしまうとしたらそれはどうか.だめに決まっている.

明らかになったもう1つの障害

 さて,様々な問題を起こしてしまった原因と,そして↑で書いてきた文章の中に共通点がある.私は基本的に人に頼らないで自分で問題を解決しようとする.いや,もっと精確には人に頼れないのだ.それは基本的には発達障害の中には含まれていない問題点である.そこで医師に指摘された.幼少期から今に至る家庭環境が,人に頼ることの障壁になっているのではないか.いわゆるPTSDである.

 私の家庭環境については,前の記事をみればある程度は厳しさをわかってもらえると思う.私には両親祖父母はおらず,天涯孤独に近い.祖母を看取った時は大変だった.そして,10歳から20歳までの10年間,母親の病気によって虐待に近い扱いを受けてきた.これを話したところ,医師はだいぶ前から何か精神的なものが残っているのではないかと指摘していた.その「何か」が大きな問題が起きることによって初めて明らかになった.

まとめ

 今まで客観的に問題に取り組んできた.取れる責任は取り,自分が障害を持っていてもやっていけるように様々な交渉を行ってきた.そして,その過程から新たな病気が見つかった.発達障害は脳の器質に起因するが,PTSDは治りうる.それはある意味で希望であるが,今の段階では治るめどは立っていない.

 ここで主観である.私が何も感じていないわけがない.正直言って辛い.しかし,私が足手まといになっているという意識はあり,辛さを相談することもできない.最近「暗闇に閉ざされている」という表現をよく使うようになった.もしかしたら,何もせずに何の責任も取らずに寿命が来たほうが良かったのかもしれない.