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「〜は死ぬべき」に対抗するのは「〜は生きていて良い」ではないと思う

今回の虐殺事件は,様々な点で人間の心をえぐり出すものだったと思う.

 私もいくつか思うところはあり,なんとか抑えていたところもあるが,いくつかの記事を読んでこれは看過できぬと思い記事を書くことにした.

zen-iku.jp

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d.hatena.ne.jp

 これらの声明や記事は実際にこの事件に関わる大きな社会課題に取り組んできて,その意味で強い主張で発信している,これは非常に重要なことで,物事を進めていくために彼らのような意志をもってやっていくこと,またそれを実際にやっていることには敬意を表する.

 しかし,この主張ははがゆい.

障害のある人一人ひとりの命の重さに思いを馳せてほしいのです。そして、障害の有る無しで特別視されることなく、お互いに人格と個性を尊重しながら共生する社会づくりに向けて共に歩んでいただきますよう心よりお願い申し上げます。

http://zen-iku.jp/wp-content/uploads/2016/07/160726stmt.pdf

 

 「障害」に伴う困難は、たとえ重複障害であったとしても人間のすべてを覆いつくすわけではなく、解消不可能なわけでもない。多くの人たちから支援を受けて、社会のあたたかさを感じながら(しばしば裏切られながら)みんな喜びも悲しみも経験していく。絶望を経由して得られた夢や希望だってある(もちろん本人と家族とでは違いがあるだろうけれど)。

「障害者」のリアリティをもって抗いたい - lessorの日記

 これらは,恐らく実際に障害者の尊厳を守るために戦い,少しずつでも幸福を目指せるように戦ってきた人々の,生の言葉であると思う.しかし,だからこそなのだが,障害者を「外から支援する立場」から逃れることができない.つまり,今回の事件が浮き彫りにした「障害者は死ぬべき」というテーゼは,障害者を支援する人以前に障害者自身が抱えている問題でもあるということを,見過ごしてはいけない.

 現代は「死にたい」と思いやすい時代であると思う.生まれ持ってもしくは後天的に障害を持ちながらも,もしくは健常者でも経済的社会的に追い込まれていてもなんとか生きている友人は多い.私もその一人だ.そして,幾度となく死にたいと考えてきたし,死にたいと告げられたこともある.インターネットはそういった発言で溢れており,そのうちのいくつかは本音だろう.

 「普通」,死にたいと言っている人間は病気として診断され,精神科及び心療内科に通うことが適切とされる.一方で,何が死にたいと思わせたのか,その原因については,医療の範疇でなく,精神科が解決できないことが多い.人は「どんな状況でも生きていて欲しい」とよく言う.しかし,実際に厳しい経験をしている人の視点で見るとなかなか簡単にはそう言えない.

 その中で,誰かと助け合いながら幸せを目指すことは,認められるべきで,誰かに侵害されるべきではない.一方で,障害者についても健常者についても,今当事者が死について考えること,さらには死にたいと考えていることについてもまた認められるべきであり,誰かに侵害されるべきではないと考える.

 これはつまり,「あなたたちは幸福になって良い」「あなたたちは生きていて良い」という言葉もまた過剰な言い分だということを意味する.支援者が支援をする際に,当事者と共有して守っていく最も大切な命題であるとは思う.しかし一旦その外に出ると,「死にたい」と思わせる要素が溢れている手付かずの現実世界が待っている.そこでは,これらは単なるきれい事であるだけでなく,死について考えている人にとっては暴力にすらなる.

 結論として,誰かに安易に「死ぬべき」というのが適切でないと同時に,誰かにその個々の生きていることを考慮せずに安易に「生きること」を推奨するのも適切ではないと思う.まず守られるべきなのは,どう生きるかは自分が決定することで,その中には死ぬことを考えることも含まれるということである.そうでないと「死ぬべき」という攻撃的な主張と向き合うことはできない.

 「実際に死ぬ」ことまで含めて自由なのか,これは難しい問題なのでコメントは差し控える.ただし,我々は皆強制的に産まれさせられた.また,今回の施設において被害者の方々が「どう生きるかを決定できる知性があるかどうか」についてはわからない.そうでない場合決定は難しくなる.私は,祖母が事実上植物状態になった段階で,家や生活を守るために延命治療を拒否した.親族で概ね結論は決まっていたが,誰も言い出せなかったから俺が勧めた.これについては未だに悩んでいる.