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発達障害として育っていくことについて

以下は体験に基づくものであり,何ら裏付けはないものなので単に書き留めておく.

 はてなブックマークの新着エントリを追っていると,それなりの頻度で「ママブログ」「子育てブログ」に遭遇することがある.その中で子の発達障害をテーマにしたものが,目につく程度には見られる.具体的な言及は避けるが,これらを読んで感じる違和感というものがある.

 発達障害に関するブログ記事の基本的なテーマというのはこういったものだ.

  • 普段の生活や学校でどういった問題が起きたか
  • 医師とどうやりとりをしたか
  • 特別支援学級に入れることも含め,学校でどう支援の交渉を行ったか

 これらを読んで,私が育った頃に比べたら,非常に手厚い支援が受けられるようになったとは思う.親,医師,学校など組織が一丸となってちゃんとした理解をし,支援していくというのは私のころはなかった.また,例えば2人子どもがいた場合障害の重さによって普通学級と特別支援学級に分ける(これである程度ブログが特定できてしまうかもしれないが)といったように,特性に合わせた支援も行っているようだ.

 しかし,これらの記事を読んで,何か子どもが育っていく上での重要な視点が潰されてしまっているのではないか,というのを漠然と感じる.支援体制が整っていくということは,裏返せば自分の人生の一部を支援体制に任せるということでもある.そこで,何か大切なものを親や学校の都合で簡単に売り渡したりしてはいないか.

 障害を含めて「自分に何ができて何ができないか」という問題は,子ども自身が学んで認識していく問題でもある.その上で自分のライフプランを組み立てていく.逆にそれができないと教育が成ったことにはならないと思う.その上で重要なのは,「何ができて何ができないかということを,試行しながら学んでいく自由」と「ライフプランを自分で決めることのできる自由」の2つであると考える.これらの自由が,支援が手厚くなることにしたがってむしろ奪われてしまうのではないか,というのが基本的な主張である.

 私の経験では,今に至るまで発達障害はとても厄介である.だから,実際に診断されたのは23の頃だがそれまでに既に「何ができて何ができないか」は相当の精度で知っており,それにしたがって将来の進路を決めてきた.

 まず,そもそも将来生きていける可能性が(家庭環境もあるが)少ないので,能力は伸ばしておくに越したことはない.ルールに縛られるのに耐えられないから自由な国立(こくりつの方.くにたちの方だったら多分ダメだった)の高校に行った.鬱病の時期に大学に通えない上に実験で厳密な提出期限を求められたので,さっさと辞めて実験がゆるい夜間の学科に編入した.そして,出社できないのでリモートワークで完全フレックスの正社員という話ができた時に飛びつき,伸ばした能力を活かしてなんとか4年働いている.その上で,基本的に厳しい自己管理が求められる博士課程への進学を「これなら大丈夫じゃないか」と決断した.

 自分で言うのもなんだが,極めて細い糸をたぐり寄せてきた.その年の電通大夜間の編入学は,全学科含めて10人受けて私しか受からなかった.会社にしても今の会社でなかったら恐らく国内に働ける会社はないだろう.博士課程もいろいろあるが,最高のタイミングで入学でき,素晴らしい環境にいると思う.「どうやって今まで生きてこられたのかわからない」と数人に言われたことがあるが,まあそれはこういうことをやってきたので普通にはわからないし,私にも本当のところはわからない.

 もちろん,これらを全てできたところで障害がなくなるわけではない.多く問題を抱えているし,問題が多すぎるので生活の主だったことを医師に告げることになる.人から恨まれたりすることも多い.しかしそれでも,障害を含めて総合的に生き方というものがなんとなく見えてきたのではないかというところである.

 また,「そういう生き方ができたのはお前の障害が比較的軽かったからで,ウチにはウチの事情がある」と言われたらそれはそのとおりだ.というか,そういったスペクトラムを含めてこの障害は構成されている.このことを踏まえて以下のことを懸念している.

 (1)基本的に支援は,障害の解消を基にしたものに見える.その場合,「自分にどういった問題や特性があるか」という重要なことを学ぶ機会を限定されてしまう,もしくは押し付けられてしまうのではないか.

 (2)学校で支援をするということは,将来の選択肢も含めて支援をするということである.その点で,「発達障害者の典型的な将来」がわかりやすく提示される.これは支援のプロの仕事である.一方で,発達障害はその性質から人によって生存可能な環境が限られるため,その細い糸をたぐり寄せる場合は自由な視野もまた必要である.その方が当事者にとって良い場合というのが一定数あるだろう.その場合,支援者の提供する「発達障害者の典型的な将来」は足かせになるのではないか.

 もちろん,これらが有効な子どもが発達障害の子ども多くを占めるのではないかと思う.そうでないと支援体制は作れない.しかし,そこからさらにマイノリティな私のような層にとっては,さらに生きづらくなっていないかという印象である.

 結論としては,分野を絞れば社会で活躍できるような発達障害者は恐らく無視できないくらいおり,彼らはどんどん能力を発揮したほうが良く,そのためには自分で自分の障害を知っていくこと,そして道を選んでいくことが重要である.しかし,そのような側面を発見して拾っていくのは難しく,支援が分厚くなるにつれてそういった機会が失われてしまうのではないか.

 親御さんには,確かに子は厄介であろうが,そういった側面も考えて欲しい.発達障害だからといって必ずしもバカだというわけではない.考えて道を切り開ける可能性のある子だっているはずである.

 もっとも,この議論の多くは健常者についても言えるのだが…