読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

全く駄目な成果物と人格否定について

 エンジニアをやりながら大学院博士課程に入学し,半年が過ぎた.現在初めての学会発表に備えている(実際には2011年にAcceptされた発表があったのだが,当日非常に嫌な予感がしてベッドから出られなかった.発表しなかったことを悔いていたら尋常ならざる地震が発生した).

 学会発表の予稿の締め切りが26日,案件の事実上のマイルストーンが27日である中で,医師に無理しても良いが28日には絶対に休めという許可を得てなんとか乗り越えた.その中で,何度か徹夜して仕上げた予稿は様々な問題があった.

 最初の予稿では,自分が網羅した現状の問題点と,教授のくれた指導は概ね近かったように思う.厳しいと思って手を抜いてしまった部分に改めて取り組まねばならないという重圧と,案件との時間の調整に追われた結果,精神が不安定になり,不安定な精神で書いた次の予稿はそのまま精神の構造が反映されていた.しかも人に伝えるという重要な部分をうまくできていなかったため,これはもうだめかと思った.当該部分を削除し再度挑んだところ,教授から細かい修正をギリギリまでいただくことができた.言葉の選び方などは流石に圧倒的なセンスだった.そして予稿の提出となんだかんだ言って伸びた案件が一段落し,久しぶりの休日である.

 さて,昨日Webで起きていた騒動が,SICPの翻訳の問題である.SICPの訳本はピアソンの撤退により一旦絶版となり,訳者の無償公開と,微妙な訳を個人で行ったPDF版の2種類がWebで読めるようになった.しかし,微妙な訳には著しい問題があり,しかもそこそこ有名になってしまったため,「アスペ日記」の人がほぼゼロから翻訳して辛辣な文句とともに公開したという経緯である.私はこれを読んで非常に強い敵意を覚えたし,まだ彼に敵意があるためリンクは貼らない.

 もう少し冷静に読めたのが,「アスペ日記」の記事に対するリプライとして書かれたShiro氏の記事である.

「腐った翻訳」について - Island Life

http://blog.practical-scheme.net/shiro/20151030-translation

プロの翻訳家や文筆家だって、自分の作品を世に出す前に、信頼できる他人に 目を通してもらうのだ。アマチュアがそうすることをためらう必要はない。

そしてその人に、根本からやり直さないとだめだ、と判断されたなら、 謙虚にそれを聞いて何度でもやり直せばいい。

そう判断されることは、自分の人格が否定されることでもないし、努力が無駄になることでもない。 むしろ、わかる人に判断を仰げるだけのアウトプットは出した、ということを意味するのだから、 それは立派な成果だ。

その成果があったから、スタートラインに立てたのだ。

 端的に言って,氏の言っていることはまっとうであると言わざるをえない.信頼できる人による専門的な訓練というものは,全く駄目な成果物を人に見せられるものに変える.それはまさに私がここ数ヶ月で身を持って体験してきたことである.事実,私は自分の専門領域について下手なことはほぼ語らなくなった.

  しかしながら,これに対してもどうもしっくりこない,というか,本質的に人格批判を - 具体的には,「腐った翻訳をした人」の「翻訳をする人」としての人格を否定したものではないのか(ここで,「人格」は人間そのものではなく,場面に応じて様々な様態をとるものとしている).「将来的にちゃんとした翻訳をできる可能性のある人」としてすら扱ってもらえないのか.そうこう考えているうちに私は私自身の人格を否定していくに至り(私は成果物だけでなく人格も悪い),ベッドから立ち上がれなくなって今に至る.最悪の週末である.

 さて,多少冷静になってきたのと,Shiro氏が新しいエントリを書いたのでそれを読んだところ,だいぶ腑に落ちてきた.

わからないということをわかる - Island Life

http://blog.practical-scheme.net/shiro/20151031-knowing-not-knowing

根本的な改善というのは 自分が変わる必要があります。 表現全体に影響を与えるかもしれない、土台から変えるような変更は、 自分でその必要性を発見できないと、やれないですよ。 他人にこうしなさいと言われてできるようなものではない。

(...)

叩き台になるレベルかどうか、どうやって自分でわかるかって? わからないところをわからないと自分で認めて、 それでも自分なりに出来るところまで考えておく、 それが出来てれば十分叩き台になりますよ。

 その通り,これは自分との戦いなのだ.ある意味で,人から(人格を含め)批判されたり否定されたりすることとは無関係で,自分の表現のだめさ,自分のわかっていない部分を受け入れて戦っていくという孤独な作業が必要である. 

 一方で,やはりそれは人格否定じゃない?と思う.要は,単に成果物の否定にかぎらず,孤独な戦いをやらない限り翻訳者などの専門的な人間としては認めないよということなので.そして,それを人格否定だという理由で否定するのも,良いことではない.結局そいつは自分と向き合わないで残ってしまう.一応Shiro氏は

Don't take it personally - Island Life

http://blog.practical-scheme.net/shiro/20081107-dont-take-it-personally

において作品に対する批判は人格否定ではないというエクスキューズを置いているが,これは議論の対象領域が異なると思う.作品への批判で完結できるような事柄なら確かにそうだ.しかし,お前のやっている行為は全然駄目だと述べて自分との戦いへと誘うような種類の批判は,やはり人格否定だと思う.換言すれば「専門家としてのマインドを身に付けろ」という人格の根本的な変更を要求するものである.

 ということで私の感じた嫌悪感をまとめると,やはり人格否定はいけないという前提に立っていたことだと思う.しかし,実際は領域を限定した上で,それをやっているお前は完全に駄目だという場合,人格否定は許容される.さらに,そこから誰の助けも得られない世界に行って苦しむことになる.ちゃんと駄目な部分と向き合わない限り,救いはない.私はそれを救いようのない世界だと感じた.

 しかし,私自身その必要性を身を持って感じて救いようのない世界に身を投じ,孤独を何度も味わいながら,時には人格を否定しながら乗り越えてきた.それを今回の翻訳の事例をきっかけに改めて客観視してしまい,辛くなったのだ.特に最近は同年代で結婚が多く,どんどん幸福になっていく,同窓会の案内があるが本当に行きたくない.その中でこのような世界で戦っていくことの先に何があるのか.つまりはそういうこと,自分自身への嫌悪感であった.

 これは今解消されることではないし,今後解消されることもないだろう.そして,上記の2人やさらに言えば id:next49 氏のような指導する側として本音を言う方の意見には厳しい感覚を抱き続けるのだろう.