もし私がエレベーターだったら

電車で隣に座ったリクルートスーツの学生の持っていた書類が少し見えてしまった。そこには「もし私がエレベーターだったら」と書かれており、A4の紙が1ページぎっしりと埋まっていた。これは何かの会社の新卒選考の課題だろう。これをみて新卒の厳しさを改めて思い出した。私は30だが、学部修士で両方就活をしているため、ある程度厳しい経験はした。しかし、エレベーターはない。とはいえ、この課題をできないと社会人失格とみなされる危険もあるので、私もやってみることにした。A4でおさまるはずである。

もし私がエレベーターだったら

 朝6時半、まだこのビルの大半のテナントが始業時間を迎えていない状態で、1人の男がふらふらしながら入ってきた。彼は前に見たことがある。前回来た時は、同じように早朝に赤ら顔で「今日は大事な商談があるから一杯飲ってきたんや」と言いながら入ってきた。今回も顔が赤く、恐らく酔っているのだろう。そして、その片手に缶ビールを持っている。まだ飲む気なのだろうか。カバンがふくらんでいるため、商談はするのだろうが、ちょっと心配である。

 昼過ぎ、昼食に外に出る人は少ない。このビルではケータリングが普及しており、ケータリングは裏の業務用エレベーターで運び込まれてくる。しかし、今日は少し異なっていた。通常の昼食時間を少し超えた頃、人が一気に増えてきたのだ。多くが不満を漏らしている。「なんで今日はケータリングがないんだ」「まあいいじゃない」「この辺り、いい店ないんだよなぁ…」どうやらケータリングに問題が起きたようだ。まあ私としても休み時間のはずだったのだが、こうなっては仕方がない。全力で人を運ぶことにした。

 落ち着いてしばらくした夕方、早朝に酔って乗ってきた男が明るい、しかし疲れた顔で乗ってきた。恐らく商談に成功したのだろう。と思って1階へ降ろそうとした矢先、男は全力で吐き始めた。なんということだ!吐いたものは広範囲に広がっていく。これはまずい。そして、そこにちらほら見えるのは、もつである。もつ!恐らく、彼は飲み屋で包んでもらったもつやきをカバンにいれてビルに持ち込み、酒を飲みながらつまんだのだ。この根性はすさまじい。これが彼のやり方なのだ。

 20時、最も混む時間帯の一つだが、多くの人間がこのエレベーターを避けていく。当然、先の件のせいだ。乗ってくる人間も、嫌な顔をしている。誰かが通報すれば掃除担当の人が来るのだが、そんなことはない。嫌な顔をしている人々は、忙しく、事なかれ主義で、自分が耐えて指定した階に行ければそれで良いのだ。そんな中、1人の男がさっそうと入ってきた。その右手に抱えた膨大な資料は、恐らくこのビルに入っているどこかの会社を徹底的に分析し、その上で提案するための資料なのだろう。彼の右足は、吐いたものを踏んでいる。そして、徹底的な無表情。私は直観した。彼は本物の人間だ。この1人が、会社を変え莫大な金を動かすのだ。

 このエレベーターは24時に電源が落ちる。その後、配線を通じて人間には知覚できない情報の流れが入ってくる。その中で、私は人間でいうところのエタノールに対応したものを選択する。それが少しずつ私の中に注ぎ込まれてくる。曖昧になっていく意識の中で、同じビルの業務エレベーターが絡みながら話しかけてきた。彼もまた酔っていた。どうやら、エアコンを運び込んだ業者が養生をちゃんとやっていなかったらしく、エアコンの扱いも雑でエレベーターに負荷がかかって故障してしまったようなのだ、ということが彼の支離滅裂な話から理解できた。ケータリングが滞ったのはそのせいか。こういう仕事をしているとそういうこともある。俺も今日の吐いた奴には困ったが、俺が汚れてあいつがうまくいけばそれでいい。そして、本物の人間がそれを乗り越えていった。そういうものをたまに見られるのだから、この仕事をする意義もあるものだろう。そんなことを考えていたら眠くなってきた。そして明日がやってくるのだ。