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創造と自信の関係について

 研究やスタートアップなど、うまく成果が出るかわからないものについて自信をつけるのは難しいので、自信とかなくてもやっていくましょうという話。

 何か新たな知見を生み出すべく踏みだそうという時、もしくは技術的ビジネス的に不確定かつ難しい要素が多い際には、自信というものを考えることがある。「これは本当にできるのだろうか」というのは本質的な問題だが、「これは本当に俺にできるのだろうか」と主語を付けることで、個人の自信の問題となる。

 その際、当然だが根拠づけて「できる」と言うことができない。そりゃできる保証なんてないんだから。このため、副次的な根拠に頼ることになるか、もしくは「根拠の無い自信」でやっていくことになる。

 副次的な自信の一つが方法やプロセスに関するものだ。新しいことが行われるとき、新しい方法が同時に生み出されるということは、あまりない。それができたらそれ自体が新しい発見となり、別の新しい発見を生み出しうることになるのだが、とりあえずそれもあるかどうかわからない。だから、とりあえず今ある方法に関する知識に頼ることになる。

 研究なら各学術分野の方法論、もしくは他の分野の方法論を組み合わせたものになる。科学哲学の知識も役に立つだろう。技術開発は基本的に今ある技術の組み合わせから始めるため、過去の技術に慣れ親しんでいたらとりあえずは良い。スタートアップなら例えば金勘定の知識がない人も多いので、そういった知識が有るだけで良い。そういう知識があって、ちゃんとできるなら、とりあえず「できるかもしれない、だってこういうことができるから」と言うことができる。MBAを取得した人などは、そういう傾向が多く見られる。

 もしくは、その人のやってきた実績によって自信を喚起することもできるだろう。「あれができた、これができた、だから今回もできるはずだ」ということだ。まあこれは自信一般について言えることだろう。その点で、子供時代にうまく自信を身につけられなかった人がだめになるというのは良くある。ちょっと脱線した。

 さて、これらの副次的な自信をつけたところで、今回の「誰もやったことがないこと」についてはできる保証がない。せめて「迫れるかもしれない」という以上ではない。ゴールに向かうのはやはり根拠の無い自信だ。しかし厄介なのが、これは人が保証できるものではないということだ。例えば「君にはできるよ」という言葉、これはどうもうさんくさい。これを言う人は自身がついて欲しいという意図があってのことだが、実際にやる立場にとっては「いや本質的はできるかどうかわからないでしょ」となる。

 まあんなことを言っていると自分の中から「できる」というのが湧いてきても俺は信用しないだろうし、自信はないことになる。「できるかどうかはわからない、ただやっていく」以上の立場にはならない。その点で面白さとかは重要だし、生きていく際に切迫してこれが必要だみたいなことも重要だし、結局はやっていく気持ちとなる。その意味で、新しいことについて「なんでこれをやっているのか」とか「これ本当にできるの」とか言うのは野暮で、まあやっていくことになる。