共感によるコミュニティについて

出現しつつある未来の働き方について、今何を知っておくべきか?

 この記事を読んで、その大筋では同意できるのだが、それゆえに受け入れることが出来ない。「共感」は人が扱うには危なすぎる。

 基本的に、本記事では組織のあり方が多くの分断された「オタク的密集集団」と、それをつなぐ「社会的交流の場」へと変わっていくと述べている。そして、その「社会的交流の場」はまさに異なる価値観の人間への共感によって成り立つと述べている。その手段が、お互いについて単に価値観だけでなくその経緯までを深く知る「Deep Listening」であると。その共感のための「社会的交流の場」をリアルの空間での、一時的な集まりとして提供するというのが、彼らのミッションであるようだ。

 私自身は、完全な共感はしきれないもので、どうしても共感できない人というのはいると考えている。一方、共感をできたとしたら、それは強い力になると思っている。だからこそ、このような共感の扱いには同意できない。

共感は感情だからこそ、限界がある

 つまるところ、共感は誰かが「共感した」と感じた、あるいはそれを外に表明したというそれ以上のものではない。人の生きてきた経緯について話で知ること、人の思いについて話で知ることは、そのためのリソースにすぎない。逆に言えば、共感は十分に人の話を聞いていなくても起こるし、もっと言えばそれぞれの「オタク的密集集団」の本質を知らなくてさえ共感は生じる。

 また、共感できる人数や深さには限界があるように見える。ドライな企業組織でも、全員が全員をよく知っているというのは20人程度が限界である。それを考えると、共感というさらに深いコミットメントに至ることのできる相手は、一体どれくらいいるのだろうか。共感できる人数が多いと言っている人がいるとしたら、それは根本的に違う集団と関わっているのとは違うし、相手を深く知っているわけではないのではないかと思ってしまうのである。それができる本当に希少な人というのは何人か見たことがあるが、彼らは天性の才能を持っているのだ。

共感は、共同作業にとってたまに危険となる

 多様な人々が話し、新たなアイディアが出てきた際には、異なった集団のメンバーの協働で何かをしようということが始まってしまう。これはある意味避けようがない。その際に、それぞれの「オタク的密集集団」についてよく知りもしないで、実際に何かしてみて根本的に自分たちの文化と違う共感できない部分に到達してしまったら、単に対立するどころではない。「何でこんなことを、信じていたのに」という「裏切り」や「不信」が起こってしまう。そういったものは、先に共感をしていないと成立しない、共感のすぐ裏側にあるものだ。

 従来の組織のドライさは、ある意味そういった感情の爆発を避けようとしてきた結果でもある。異なるバックボーンを持つ人々が、離散せずに共同作業をできるシステムが、従来の企業だったりする。一方、もはや各個人が「オタク的密集集団」の一員になりつつあり、ドライなやり方では他の集団と繋がれない程度に多様になりつつある、という主張はリアルだ。

 つまり、何らかの新しいやり方は必要なのだ。共感による方法もその一つだ。また、前の記事でも書いたが、主にエンジニアの仕事のやり方が、「調整から連携へ」つまり、深いコミュニケーションからよりスマートなつながり方を模索する方向に行きつつあるのも、新しいやり方の一つである。

共感のマネジメントと信頼の必要性

 このような問題点はあるが、だがしかし、共感は異なる人をつなぎとめる一つの重要な方法だと思う。一方、人の心というもろくて過激なカテゴリに属する共感は、簡単には扱えない。例えば、共感できないことが生じたとしても、とりあえず相手のことを悪く思わない、攻撃や罵倒などをしないなどといった規範や、それを守らせるための文化は必要になるだろう。

 また、一つの「社会的交流の場」に依る共感ではなく、例えば個別の会話などでより相手を深く知ったり、逆に分業などによって距離をおいたりして継続的な共感の維持を意識してやる必要があるだろう。この辺りについては、心にも協調にも関わる重要な概念、つまり「信頼」という面の重要性を忘れてはならない。お互いに異質であり続けることや、進んでいる物事は、信頼の上になりたっているのだ。

 「結局心が重要なんだよ」と多くの人が言うし、実際ほとんどのことが心で決まると思う。一方で、心で動く人間が誤った方向や過激な方向に行かないための文化や制度や技術があって、その上でお互いの心を尊重できているという事実を忘れてはならない。