研究失敗者の末路

もともと表に出す予定のなかった文章だが、一応掲載しておく。本職の研究者の方や、工学系の院生の方には、この事例の質の低さに呆れるだろう。また、私自身、これが25歳の書いた文章だと思うと、その稚拙さにうんざりする。

もともと一部の人間向けの文書のため、多少端折っている部分があるが、大まかにまとめると
・方向性はあるが、漠然とした目論見で入学した
・グダグダがグダグダを呼び、気がついたらにっちもさっちもいかなくなっていた
ということです。

当初の目論みについて

多少回り道になるが、私の考えは、「リアルとバーチャル」に関するイデオロギー的な面を取り上げれば恐らくすっきりと把握できるだろう。将来のことはわからないが、ここでは、バーチャルがインターネット、リアルがそれ以外と素朴に分類する。私は基本的にバーチャルを重視するが、その立場には「リアルの否定」と「バーチャルの肯定」の両方が含まれている。

明らかに現れたのは前者が先である。私は少なくとも4歳の頃から現在に至るまで、コミュニケーションに問題を抱えてきた。原因や実際の現象はさておき、人がうまくできることが自分にはできないということを常に意識していた。

私がエスノメソドロジー(EM)という、日常の場面をビデオなどで撮影し、人々がその場でうまくやっていく方法を詳細に見ていく社会学の分野に関心を抱いたのはまずその点である。視線や発話交換の問題や、ワークプレイスでの特有の作業の達成の問題などをテーマとするEMは、私が「うまくいっている人間」と見ている人々について少しでも理解する手段になるのではないか、と考えた。これに関しては本研究室の扱う主要課題ではないが、様々なフィールドでの調査を通じて、一人でこっそり把握する程度の知見は得られそうだとは考えていた。

さて、一方で後者の「バーチャルの肯定」についてである。基本的に、私は日常生活の殆どをインターネットで過ごしている。私はインターネットを単なる趣味とは考えておらず、実際に仕事をしたり、リアルでの活動の基盤としている。一方インターネットに関する批判は数多くあり、研究者からは取るに足らないものとして認知されていることは理解している。実際、技術だけをとっても現在の最新のWeb技術は、大型計算機分野では80年代後半に研究がされていたものである。

また、そうでなくてもWebに一定以上の未来がないことは明らかである。Webで扱われているものはテクスト、画像、映像、音声などコンピュータ登場以前から記録技術が存在していたものであり、その他では曖昧な「コミュニケーション」や「コミュニティ」であろう。これらの扱い方をどう変えようと、現状で革新的な変化は起こらない、つまりネットでできることの限界は特に変わらないだろうと推測される。

私としては、今後Web(あるいは、それに取って代わるもの)はそれ以上のものを扱うようになるべきだと考えており、そのためには現実の世界について理解し、どんどんコンピュータで扱えるようにする必要がある。これは、ワークプレイス研究や、少し違うがVRの問題意識と重なる部分もあるだろう。しかし、これを実現するには、EM以外にも工学への深い知識が必要である。少なくとも生半可な段取りで実現できるものではない。

以上より、
・明確な一つの問題意識があったわけではなく、総和としてこの研究室にいたら何か知見が得られるのではないか程度の意識であった
・特に工学と絡めた研究をする必然性はなかった
ことがわかる。私が、ひいき目に見ても、自分でものを考えてそれを実現する能力を持った人間はおろか、何も考えず指導教官の言う通りに研究を行う人間より劣ることは明白である。しかも、さらに悪いことに、この意識について私は漠然とした把握しかしておらず、様々な思惑が混濁していた。

研究開始後の展開について

このような人間が実際に研究を始めたらどうなったかを要約する。

私は4月の段階で既に混乱の渦中にあった。思えばこの段階で研究室の扱うフィールドのどこかを対象とすると決めても良かった。しかし、何故か私はこの段階でコンピュータと人が関わる世界を対象としようとしていた。それは私にとって当たり前だった。今まで理系の大学にいたから、それがアドバンテージになると考えていた。

とりあえず、何かを作ってそれを分析してみようと考えた。そうして出来上がったのが、MIDを2つ組み合わせた両面液晶端末である。しかし、これにはCHI 2009だけでも似たデバイスがいくつかあったため、一度発表しただけで及び腰になって断念してしまった。思えば後にやったことに比べたら、両面液晶端末はまだ良かったかもしれない。

次に私が携わったのは、都内で開催された「ジオジオスタンプラリー」という位置情報ゲームイベントのビデオによるフィールド調査である。後付けであるが、イベントは実際の生活空間と実験的状況の間にあり、新技術の調査には適しているらしい。何より、実際に外で人がモバイル端末を使っている状況をビデオに撮ることができるまたとない機会であり、また撮影していてとても面白かった。

私はこれを論文にしようと試みた。端末に表示された情報と実際に人が見ている空間はどう関わっているのか、また端末や空間への指差しはどう人に理解されるのか。いくつかの問題について分析してまとめた。「インタラクション」に投稿したが、落ちてしまった。

この研究を続けるとしたら、もっと多くのイベントでデータを収集する必要があったが、残念ながら後が続かない。仕方なく、自分で位置情報に関するタスクを行う実験を企画することにした。これにはシステムが必要になるが、私には開発能力がなかった。また、前回のような大規模な実験を計画してしまったため、事前準備にも時間がかかり、実験自体のマネージメントも必要になる。

結局、システムはGoogle MapsマッシュアップiPod Touchの自作画像ビューワ(GPSは使えなかった)という到底研究レベルに達しないものになり、また撮影も音が採れていないという重大な問題が起こり、研究に参加して下さった方々には大変負担をかけてしまった。

この段階で、1月が終わった。修論まで10ヶ月で、私はほぼ諦めていた。私は就職活動を始め、また様々な新たな活動へ関わっていくことになった。その間、研究としても面白い題材があったことも事実である。例えばワークプレイス研究ではミュージアムやギャラリーの分析も多いが、私は破滅ラウンジという、メディアアートとは異質のインタラクティブ性を持った展示に関わっていた。大迷惑かもしれないが、そういう場所を題材にすれば、何か知見が得られたかもしれない。しかし、それは今までの研究とはかけ離れたもので、怖じ気づいて実行には移さなかった。

同じ頃、私はオープンソースSNS企業でバイトを始めた。その中でredmine、gitなどを利用した開発を学び、その素晴らしさに感動した。私のような人間でも、ちゃんと仕事ができる(どう評価されているかはわからないが)。一方で、現実の空間はこれ以上問題とする必要がないのではないかという考えも浮かんだ。それは今までの研究とは反していた。

さて、大学院に居残ってしまったため、何か手を打たなければならない。しかし、その時には既に自分がいかに能力がないかを実感し、必死にバイトで生き残ろうとしていたため、研究に裂けるリソースは限られていた。私は、以前作っていた360度パノラマカメラを改良し、遠隔作業システムとして分析することを考えた。

今度の実験では、さすがに撮影は成功した。実験設定に協力してくれた学生は非常に優秀で、何をやってもうまくいくと思う。しかし、私のシステムは非常に不完全だった。元々のコンセプトに対してインタフェースは粗悪で、直観的な操作を目指したのに荒削りな部分のせいで圧倒的に操作しづらくなっていた。実験の中で、私のシステムはほぼ使われなかった。

ここで「敗因」をまとめると(典型的なものは除く)、
・根本的にコンセプトに欠けていたため、場当たり的に行動を選択し、リソースが分散してしまった
・研究室のプロジェクトやフィールドワーク中心への転向に躊躇してしまった
・技術もやることになり、泥沼の消耗戦に持ち込んでしまった
が挙げられる。

現況について

何をしたら良いか検討がつかない。まとめることも正当化もできない。