世の中の可変性について

要約:人は誰でも,世の中のここが変えられてここが変えられないということを,頭の中に持っている。可変性の軸を導入したらいろいろわかりやすくなるのではないか。

本文

 例えば働き方を柔軟にするとか,オープンコラボレーション的な方法でインターネットを創造的にするとか,発達障害独自のコミュニケーション様式を作ったら良いのではないかとか,いろいろな「世の中を良くする方法」は思いつくのだが,どうも空転してしまう。「やっていきましょう!」と言う人も「そんなこと机上の空論だろ」と言う人もいるのだが,どちらも大した根拠がないし,私もそんなもんは持っていない。だからといって,「とにかくいろいろ試してみる」というやり方は好きではない。

 ということで,視点を変えて今実際に世の中を変えようとしている人の方を見てみる。例えば与野党の対立は2回の政権交代を経てわかりやすい形で激化しており,発達障害者の身の処し方についても議論しようとすれば,適応する方向と世の中側が認めていく方向に分かれると思う。オープンの思想は世に問われ続けており,そのエコシステムに依存している末裔であるWebなどの開発者は,新しい働き方や物事のやり方について変えることに比較的抵抗がないように思える。

 そういっていろいろ見ていくと,雑駁な意味での保守・革新というか,「世の中のここは変えられるけど,ここは変えられない」という考え方が,隠れた対立点になっているのではないかと思う。議論の前提と言っても良い。これをとりあえず「世の中の可変性」と呼ぼう。世の中の可変性に対する考え方が異なると,「どうすべきか」という方向性や「こうやっている」という行動が異なってくる。例えば

  • 裁量労働制に関する議論を見る限り,推進者は「労働時間を自由にしたほうが良い」という極端な性善説を持ち寄ろうとし,反対者は「定時に出社して定時に帰る,それが労働者を護る方法だ」という,人によっては非常に負担を強いる考え方を変えることはなかった。彼らは,そもそもの定時出社のあり方について考えようとすらしなかった。
  • 「Webは世の中にゴミのような情報を増やし,その結果人々は見たいものしか見なくなり極端な考え方をするようになった」「Webにおいてはその場その場の盛り上がりが原動力になるので,物事が蓄積されず非生産的である」といった考え方は,今やWebの本質とも捉えられている。しかし,既存の事例以外にも人々が協働する方法はいくらでもあり,例えばオープンソース活動やWikipediaなどの一定の成功を,より多くの人々や課題に対して開いていくという考え方もできる。
  • 発達障害に関して,当事者間での認識は異なるように見える。頭の良い人は個性だから自由にやっていけば良いみたいになるが,彼らは恵まれているからそういうことが言える。一方,「治療」は多くの人に指針を与え,社会とのコネクションを調整するきっかけになるが,往々にしてうまくいかず,最悪死に至る。いずれの立場にせよ,「発達障害に適したように職場や世の中の方を変えていく」ことができるかどうか,できるとしたらそれはどのレベルでどの程度かについては議論があると思う。

 なんか揉める議題を複数持ってきてしまったので,お前はどっちの立場だみたいに言われると非常に困る。というか「お前はどっちの立場だ」から始めることが揉める原因になっていると思う。というのも立場の前提となる,世の中の可変性への認識が異なるため。定時に働くという近代以降の働き方ははたして不変のものなのか。はたしてインターネットではどういうやり方をとっても情報が滅茶苦茶になって刹那的になってしまうのか。はたして人は,というか日本人の社会は発達障害に対して寛容になれないのか。そういった問いには課題が山ほどある。

 世の中を変えるか変えないかの議論をする前に,可変性を考えることは一見して非生産的に見えるようで,議論のベースとして重要であるように思う。しかし,「どうするか」のレベルの議論にはどこかで決着がつきやすいが,「どういうことが可変で,どういうことが不変だと考えているのか」について人々が合意することは難しい。そういった話になると水掛け論になるのではないかと考える方もいるだろうが,水掛け論になるとしたら,どうすべきかの議論も不健全である。

 こういった議論は,「メタ議論」みたいに扱われることが多く,議論の本線に対して斜に構えているといった変な嫌われ方をすることが多い。というか本線が不毛すぎてしらけているので斜に構えているのは事実なのだが,「メタ議論」というカテゴリがあったとしてもそれは議論なので,世の中の課題をどうにかするのに必要ならすべきであると思う。

 ここまで考えたが結論はない。WIPである。

専門業務型裁量労働制について

news.yahoo.co.jp

 実態として働かせ放題の温床になっているということには同意するが,記事にどうもミスリードがある。リモートワークについていろいろ調べた関係から「専門業務型裁量労働制」についてはいくつか文書を見てきたのだが,「働かせ放題」の原因はこの記事に書かれていることではないように思う。

 私は法の専門家ではない。法律的用語は全て怪しい可能性がある。それでもこの記事を書いたのは,上記記事のような偏った記事を弁護士が書いて,それが情報として流通することが良くないと考えたからだ。本来は弁護士が,具体的な裁判の事例に即して書くべき内容である。

 上記記事においては

  1. 使用者から「これをやれ」と命令がなされる
  2. 労働者はそれを遂行する
  3. 労働者は仕事の結果を使用者へ渡す

と労働を類型化した上で,「裁量」が2にしかないとする。つまり,

これは、要するに、業務量については労働者には裁量がないということを意味します。

と言い切っている。これは,事実上労働時間について裁量がないということを意味しており,それゆえに「働かせ放題」の根拠になっているとする。

 しかし,根拠となっている労働基準法第三十八条の三を見ると,どうもそうではないということがわかる。また,これに沿った厚労省ガイドラインがある。これは労基則24条の2の2第2項と,平成9年労働省告示7号に基づく。

専門業務型裁量労働制

 東京労働局によるわかりやすいパンフもある。

http://tokyo-roudoukyoku.jsite.mhlw.go.jp/library/tokyo-roudoukyoku/roudou/jikan/pamphlet/4special2.pdf

ここに,制度を適用するには,労使協定を締結して労働基準監督署に提出する必要があると書かれている。裁量労働の人で,エッ知らないんだけど…となった場合は,入社時に知らず知らずのうちにハンコを押しているか,会社が違法なことをしている可能性が高い。

 で,その労使協定の内実であるが,

(1) 制度の対象とする業務
(2) 対象となる業務遂行の手段や方法、時間配分等に関し労働者に具体的な指示をしないこと
(3) 労働時間としてみなす時間
(4) 対象となる労働者の労働時間の状況に応じて実施する健康・福祉を確保するための措置の具体的内容
(5) 対象となる労働者からの苦情の処理のため実施する措置の具体的内容
(6) 協定の有効期間(※3年以内とすることが望ましい。)
(7) (4)及び(5)に関し労働者ごとに講じた措置の記録を協定の有効期間及びその期間満了後3年間保存すること

 とある。まず,(2)であるが,これがあるので,時間には強い裁量が与えられる。例えば朝8時半など,出社時間を強制的に指定することすら違反である可能性がある。就業規則に8時半から19時までと書かれていても,専門業務型裁量労働制の元に働く限り,裁量のほうが優先される。

 次に,(4)(5)である。つまり,会社は「働かせすぎ(健康・福祉が確保されていない)」を具体的にどうにかする必要があり,労働者は働かせすぎの問題にクレーム(苦情)を入れる権利があり,会社はそれに応じる(具体的な措置を実施する)必要がある。その具体的措置は(7)により定期的に記録しなければならず,適切でなかった場合はそれが明るみに出る。これは「裁量」のもとにうまく働かせろという,労働者が会社に突きつけ,会社が受け取った条件である。

 そんなこと聞いたことないと思ったとしたら,そういった仕組みを労働者に適切に知らせていないか,あったとしてもアクセスできないか,書面上にしか存在していない可能性が高い。全部違反である。労働基準監督署に通報したら,会社にとってまずいことになる。

 ということで,上記記事の「業務量については労働者には裁量がない」というのは,間違っていると考える。このため,

 (-"-)「仕事が多くて終わらないッス」

( ゜Д゜)「仕事の進め方は自由でいいぞ」

(-"-)「いや、仕事が多すぎるんです。終わらないんです」

( ゜Д゜)「でも、仕事の進め方は自由だぞ。」

(-"-)「・・・・(怒)」

裁量労働制とはこういう制度(佐々木亮) - 個人 - Yahoo!ニュース

といった,上記記事に掲載されている例は,全て会社にクレームを入れ,しかるべき対応を要求することができるはずである。そうでないなら法的にアウトである。OKではない。

 では,何が問題か。私は,会社にクレームを入れる仕組みと,それをうまく動かすために会社を監督する仕組みがうまく動いていないからだと考える。少なくとも書面上は,そういった対応策が存在するはずだ。しかし,力関係で潰されてしまう。これは違法である。

 もっといえば,「働かせ放題」という言葉で,誰かが責任逃れをしているのではないかとすら考えられる。「働かせ放題」が法的にOKだと労働者に認識されているとしたら,労働基準監督署も弁護士も会社も厄介な紛争を避けられる(もっとも,それがOKになるような法改正になるとしたら,全力で抵抗する必要がある)。また,クレームを入れられる協定について注目されていないのは,例えば労働組合がうまく機能していないのではと考えられる。

 そして,労働者がどうするかということに関しては,上記のような,労使協定に明らかに反するような実態があるような会社,上司が圧力をかけることがまかり通り,クレームを入れる制度が明らかに動いていなかったり,それをチェックする体制がなかったりする場合は,専門業務型裁量労働制で絶対に働くべきではない。通常の働き方にするほうが自分を守ることができる。

 いま専門業務型裁量労働制で働いていて,実態がそれに即しておらず,退職にも踏み切れない人については,専門業務型裁量労働制そのものから足を洗う勇気が必要なんじゃないかと思う。ガイドラインにあるように,また「専門業務型裁量労働制」という名前にあるように,これは専門的な19職種に限られた働き方である。つまり,気に食わなければ辞めて他の会社に移れる人のための制度である。この前提は,「企画業務型」であっても変わらず,法が改正されて対象業務が広がるとしたら暗黙の前提となるだろう。意図せずしてそういった働き方を望まない人がこの立場に置かれてしまったとしたら,不幸であると言うしかない。しかし,それを是正するには辞めるしかないのだ。

 最後に,この制度はちゃんと運用されている限り,つまり無茶な労働について「だめ」と会社に言える限り,良い制度になりうる。実態はたしかに最悪に近い。しかし,それを理由に本来の意義やうまく回す仕組みを考えなかったら,頭の回る悪い会社の思うツボである。少なくとも私には,裁量は必要だ。何しろ勤務時間を守れぬので。そして,その上でちゃんと働くために納期はちゃんと守っているので。

 

追記

 この記事はそこそこ注目されているようなので,エクスキューズをいくつか。気に食わないと思った方もおられるかと思いますが,反論の前に読んでくださると幸いです。

 まず,この議論の詳細の怪しい部分は専門家に確認してください。

 次に,こんなの理想論だろ,現実に実現できるはずがないという話について。これは政治の領域になるので,民主主義を動かしてください。罰金を課すという案もありますが,本当に悪い企業は罰金を払ってでも悪用する気がします。電通あたりを見ると,営業停止が効く気がします。

 最後に,御託はいい,裁量労働そのものがとにかく悪だという話について。働きたくないと思ったことはありませんか?毎日決まった労働時間で働くことそのものに疑問を感じたことはありませんか?そういった疑問を一つでも感じたことのある人なら,「普通の」労働が最善ではなく,色々ありうることがわかるはずです。裁量労働の他になにか良い案もあるはずです。

 例えば私については障害があるので,今自分の会社でうまく回っているリモートワーク,裁量労働がなくなって,出勤と退勤の場所と時間が決まった瞬間に働けなくなります。だから,裁量労働の良い部分については擁護します。

 それはお前やその周りが特殊な環境で働いてるからだろと言われたら,それはそうかもしれません。また,あなたの環境を良くするのは非常に難しいかもしれません。なので,裁量労働の悪い部分については一切擁護しません。

 このような事情なので,議論をうまくやるためには分析や整理が必要だと考えます。その一側面がこの記事です。

 しかしいずれにせよ,そういった本質的で複雑な議論の主導権を,悪用しそうな企業に握らせてしまうことは,さしあたってよくないのではないでしょうか。

リモートワークと感情に依存した働き方について

気がついたら「リモートワーク」と名の付いた記事が3本目になってしまった。

まとめ

  • 普段感情を出すなって言われてるのに,相手の感情を読み取ることが仕事に必要だという状況がおかしいので,感情を表に出せる環境のほうがいい
  • 対面でのコミュニケーションでは,無駄に感情が必要になる。いろいろな方法を使って相手の感情を読み取ったりする場面を減らした方がいい。その方が安心して感情を出せる
  • リモートで感情がわかりすぎても困る。プライベートは大事にした方がいい

speakerdeck.com

 何日か前に id:daiksy さんのこのスライドを見てから調子が悪く,何かモニョっとした感情が頭の中を渦巻いている。

 というのも,このスライドで言われているリモートワークの難しさは,人が組織でやっていっていることがどれだけ感情という基盤に乗っているかということを浮き彫りにしているからだ。

 スライドの方を見てくださればわかるのだが,リモートワークにおいては,言葉によらないノンバーバルな情報や,感情,心理的な面などが伝わらないということが,本当の難しさだと主張されている。このような主張は多くなされており,弊社でも当然このような問題は起こっている。

私はここでいくつかの疑問をいだいた。

  • そもそも,現場/リモート問わず,仕事を進めるのになぜノンバーバルな情報や感情が必要なのか?
  • 「感情を表すメタ情報」を増やすのはよくないのでは?
  • そもそもそもそも,「仕事では悪い感情を表に出さないほうが良い」ということが言われている上で,悪い感情を推し量って読み取るというのは,不効率で無理難題なのでは?

1つずつ消化していく。「まとめ」と順番が前後しているのですが,ご容赦ください。

そもそも,現場/リモート問わず,仕事を進めるのになぜノンバーバルな情報や感情が必要なのか?

 えっと,必要ないと言っているわけではない。ここで疑問なのは,本当は仕事のフローや文書などでどうにかできるはずのことを,対面的なコミュニケーションに頼ってしまうことが結構あるのではないかということである。対面のコミュニケーションでは,感情は意図がなくてもよく伝わってしまう。そして,それを使うことで円滑なコミュニケーションが可能になる側面もある。なので,感情を使わなくても良い種類の情報交換に,細かな感情のやりとりが必要になるという場面があるのではないか。

 つまり,「リモートワークのコミュニケーションで感情が伝わらない」というのは結果論で,「普段のコミュニケーションを感情に依存するスタイルでやっているから,リモートだとうまくいかない」ということではないかと考えている。要は,我々は感情に振り回される仕事の仕方をしている。そうだとしたら,感情をより伝わるようにする以前に,感情が必要ないコミュニケーション方法や情報管理の方法を導入したほうが良いと思う。そして,感情が必要な場面に感情を読み取る力を集中させたほうが良い。

「感情を表すメタ情報」を増やすのはよくないのでは?

 上記スライドの方では,感情表現をリモートワークでなんとか再現しようという方向に行っているが,正直それはうまくいかないと思う。例えば今のVRの進展を見ればわかるように,将来的には,リモートで対面と同じくらいの感情が伝わる可能性は十分にある。

 しかし,あの,こう言うと非常にあれなのだが,それは人の感情を強く感じてしまうような,つまりオフィスにいるのと同じなのではないか。そして,例えば自宅なり自分の好きな場所がオフィスになってしまうということは,プライベートな場所に仕事が強く介入してしまうことも意味する。それは恐らくあまり良くない。人間には侵されたくない場所があると思う。

そもそもそもそも,「仕事では悪い感情を表に出さないほうが良い」ということが言われている上で,悪い感情を推し量って読み取るというのは,不効率で無理難題なのでは?

 以前から気になっていたことがある。「職場では悪い感情を出さない方がいい」という主張だ。これはいわゆるポジティブシンキングやライフハックの文脈でも言われており,またチームや組織をうまく回すプラクティスとしても主張されている。要は悪い感情は場に伝わってしまい,ギスギスして良くないという考え方だ。そして,感情を一旦棚において,悪い感情のもととなっている問題を分析することを良しとする。

 私はこの主張にひどく反対している。悪いことが起こったら悪い感情が起こるのは当たり前のことだ。そして,「真剣に辛くて悪いことに直面している」ということは,単なる問題の提示だけでは伝わらない。そういうときこそ感情が必要なのではないか。これはスライドの方にも「心理的安全」として言及されている。

 要は,矛盾する2つの規範が組織で働いているのではないかと思っている。片方は感情を出さないほうが良いというもので,もう片方は感情を出せるほうが良いというものだ。これにはもちろん程度問題もあるだろう。やはりブチ切れるのは相当に特殊な状況でないと厳しい。逆に過度に感情を出せない状況で相手をネチネチと追い詰めることも起こる。

 しかし,根本的に感情はうまく扱われていないように思う。悪い感情を表に出すべきではないが,相手がどう感じているかというのは必要だ。その結果として,ノンバーバルなコミュニケーションや空気感など,言葉に現れないものが必要になる。この状況はおかしい。自分から問題を難しくしている。

 私は非常にシンプルにこう思う。感情を言葉で出せばいい。「辛い」とか「嫌な感じです」とか言えばいい。良かったときは喜べばいい。自分が手塩にかけて作ったプロダクトが「全然だめだよこれ」と言われて,名誉挽回のために1年尽力し,「凄い」しか言われないようになったということが最近あったが,もうこういうのは羽目をはずして喜ぶしかない。恐らく,普通に悪い感情を出しても,そんなに空気がガラッと変わるほど影響はないと思う。特にリモートだとそうだ。ガラッと変わるときは本当にやばいときだ。そんなときにポジティブを保つのは,感情を直接出さない場合でも,難しい。

結論

まとめを再掲すると

  • 普段感情を出すなって言われてるのに,相手の感情を読み取ることが仕事に必要だという状況がおかしいので,感情を表に出せる環境のほうがいい
  • 対面でのコミュニケーションでは,無駄に感情が必要になる。いろいろな方法を使って相手の感情を読み取ったりする場面を減らした方がいい。その方が安心して感情を出せる
  • リモートで感情がわかりすぎても困る。プライベートは大事にした方がいい

 つまり,私の主張としては,基本的に感情はスムーズに出せたほうが,わざわざ「感情を読み取る」難しい方法をとらないで済むので結果的に楽になると思う。それを可能にするために,コミュニケーションの方式を感情に振り回されない形に変えていく。最後に,仕事とプライベートのメリハリはちゃんとつける。それがリモートワークが浮き彫りにした,より良い仕事における感情の扱い方なのではないか。

補論

 荒削りな分析になってしまったので(主に寒くて体調が悪かったのが理由),いろいろフィードバックを頂いた。

 その中で特に曖昧に議論してしまったこととして,「感情を爆発させることと,感情を出すことは違うだろ」というのがある。それはそうで,感情の爆発は抑えるべきだ。あと,感情の赴くままに人を罵倒したりするオッサンみたいなのは本当に嫌だ。一方で,私の経験上普段感情をうまく表に出せないことと,最終的に感情を爆発させることは連続しているように思う。

 苦境をうまく伝えられず状況がドンドン悪くなっていく中で頑張って,その最終的にどうしようもなくなった時(その時はプロジェクトもめちゃくちゃになっている),感情の爆発が起こったりする。いわゆる「キレる」だけでなく,突然休職したり辞めるのも,ある種強い感情の爆発と似たようなものだと思う。その意味で,感情の爆発という最後の逃げ道を塞いでしまうのはどうなのかなーとは少し思う。どっちが良いのかはわからない。

 こういった問題については,やはり論旨は変わらず,普段から感情や状況への認識がうまく伝わっているなら,感情の爆発がそもそも起こらないように,事前に防げることが多いと思う。

 あと,「プラス感情の長所や雑談の良さ」については,見て明らかな感じではないが,重要な役割を果たしていると思う。

 まあともかく,仕事と感情の関係というのは,もっと議論されると良いんかなーという印象がある。盲点や経験則になりがちなので。

コミュニケーション負荷の少ないチームにするという方向性

anond.hatelabo.jp

www.nurs.or.jp

に一応反論というか,別の方向性を提案しておく。

 基本的に,人は悪いことが起こることや,悪い感情を持つことから逃れることはできない。これは宗教から心理学まで様々なアプローチに見るように,数千年経っても解決されていない。例えば,怒りを持った場合「怒りの原因を突き止め,別の方向に感情を逃がす」という方法は,何度も再発明されてきた。その点で「口の悪い人間」は一部しかいないが,全く「悪い人間」でない人間というのはいないと思う。

 なので,「口の悪い人間」というのはあくまでコミュニケーションにおいて表に出す方法の問題で,そもそもコミュニケーションに気を使うか,どこまで気を使うかという問題から,どう気を使うかまで含まれる。これは文化に依存するが,概ね嫌われるパターンと言うのはあると思う。逆に,悪さなどを表に出す人間でもそれがうまければ問題にならないと思う。例が出てこないのでそういった人は少ないと思うのだが。その点で,「口の悪い人間」問題がおごちゃん様の仰るように主観に依るというのは同意できる。

 ということを踏まえた上で,なぜ「口の悪い人間」が問題になるのかを考えたい。私は,これはそもそもコミュニケーションの量が増えたからだと考えている。例えばソフトウェア開発にしても,対処すべき問題がどんどん複雑になっている。このため,個々人で完結できることは減っており,報告や交渉,調整を必要とする事柄は放っておくと無秩序に増える。その中で,「口の悪い人間」は問題となる。

 その中で,コミュニケーションに意図的に制限を加え,組織として統制を取る官僚的なシステムは,うまく対応できていない。そのために考案されたのが「チーム」である。少人数で密接なコミュニケーションを取ることにより,個々の能力を最大化し大きな問題に対処していく。アジャイルを始めとしていろいろな方法があるが,基本的な部分は共通している。官僚的な組織でも,チームの要素を取り入れたり,自発的に起こるチームの重要性が指摘されている。

 チームでは,コミュニケーションが増える。それどころか,チームワークをうまくいかせるパターンとして「コミュニケーションを密接にとること」が規範とすらなっている。しかしここで考えたい。これは本当に正しいのだろうか。本当にコミュニケーションが必要な局面はどれだけあるのだろうか。口頭で即座に答えなければならない事柄はどれだけあるのだろうか。

 私は,チームワークにおいてコミュニケーションは確かに重要だが,それゆえ統制されず「結果的に」増えてしまった側面もあり,それは見過ごされていると考えている。例えば,ナレッジベースやWikiなどのシステムを効果的に活用しているチームでは,そちらの方で非同期的にコミュニケーションを行える。口頭でのコミュニケーションではなく文章として問題点を書いていく場合,そこに「口の悪さ」はあまり現れない。「こういった状況でこういった問題があってこうしていきたい」といった内容を説得的に記述していく際に,感情面は薄れてしまうからだ。そのような「コミュニケーションを減らす」技術なり手法があるのに,使わないで口頭に頼るということは,結果的にチームの効果を下げると考える。もっとも,書き言葉にすればよいというものでもない。書き言葉で悪い言葉が流通しているということは,インターネットを見ればわかる。

 要は,コミュニケーションの量や方法を良い方向に持っていく努力ができ,結果的にそれはチームを強靭にすることにつながると考えられる。コミュニケーションが増えるということは,個々人がコミュニケーションにかける時間的精神的コストの増大も意味するので,常に良い方向とは言えない。様々な手段や技術を用い,コミュニケーションのコストを下げ,その上で口頭のコミュニケーションを効果的な方向に集中させるやり方があっていいと思う。

 その意味で,「口の悪さ」が「職場の雰囲気をギスギスさせてしまうこと」につながってしまうということは,チームのあり方の方にも問題があるとも考えられる。例えば,悪い感情を実は皆押さえ込んでおり,それでチームが回っているとすると,悪い雰囲気は容易に伝搬してしまう。また,悪いコミュニケーションにちゃんと不寛容なチームなら,1人の口の悪い人間は居心地の悪さを感じ,自ら去っていくだろう。

 ということで,「口の悪い人間」が顕著に問題となるチームは,どこかに弱点があるのではないかと思う。そして,安定した状況では問題とならないが,デスマーチなどではその弱さが顕著に現れる。平和で和気あいあいとしたチームがどこかで暗転するような,恐ろしい現場を何度か見てきた。しかしそれは往々にして「口の悪い人間」が引き起こしたことではない。普通の人が悪くなってしまうのだ。そして,口の悪さより悪いものは多く存在する。例えば客の無茶な要求に耐え続けニコニコとし続けた結果,チームがぼろぼろになることはある。

 口が悪い悪くないに関わらず,口の悪い人間が問題となるチームと,問題とならないチームだったら,後者のほうが健全だと私は考える。個々人のせいにして終わらせてはいけない。

 もっとも,どんなチームであろうと最終的には現場がうまく回れば良い。うまく回りさえすれば…

それくらいしかやることがなかったから

ガード下 Advent Calendar 2017 - Adventar

本題に入る前のイントロ

 なんだろうか,今感じている自分のクソさなり,閉塞感なりがあり,それを人にどうもわかってもらえない。32になり「田島さんも安定してきましたね」「社会人やって博士課程にも行ってるんでしょ,別に不満なんて言う必要ないじゃん」「『俺はもうだめだ』とか言うのをやめろよ」などと言われるようになったが,実際はそうということはなく,毎年綱渡りである。

 個人的にはそのギャップを吐き出す場として「ガード下 Advent Calendar」を作ったのだが,結局それを具現化したのは最初の橘ありすに関する記事のみで,それ以降に書いた3件の記事は「自分を含め皆がどうインターネットやそれが人を幸せにする可能性を信じられるか」のプログラムの素描であり,その裏返しにあるインターネットにおいても現実世界においても,つまりどこにおいてもうまくいっていない,可能性くらいしか依拠できるものがない現状について書くことから,ある意味で逃げてきた。そして私自身は少なくない人に良くないとされる言動を繰り返してしまい,「荒れて」いた1ヶ月だった。

 そんな中,はてブを適当に巡回していたらこの記事が目に止まった。

d.hatena.ne.jp

これそのものは見出しを見て情報社会論として読むべきものだと思ったが,それ以上に,「ネットにしか居場所がないということ」という見出しに目が行った。こういった書き方をする人は今はあまりいない。ということで電子書籍を買わず(後でどこかの予算か,もしくは自腹で買う),ウェブ連載を基にしているということでその記事を探して読んだ。

wirelesswire.jp

wirelesswire.jp

 この記事は,思ったより渋かった。職のない精神疾患を持った男や,引きこもりの男がWikipediaに自分の活動できる拠り所としての価値を見出し,うまくいったりうまくいかなかったりする。対するWikipedia側としてはそういった「問題児」に寛容ではなく,「精神疾患を持った人のためのセラピーではない,治療を受けてから来い」というエッセイが共感を得て一種の規範となっている。それに対して警鐘を鳴らす人もいる。

 こういった状況は,Webにおける共同体や開かれた活動への参加,つまり21世紀我々に残されたフロンティアにとって非常にedgeな事例だと思う。だからこそ,Stack Overflowとwebにおける活動のゆるさに関する記事を書いた際にも,また今論文を書いていて助言を戴いた際にも,私の根底にある考え方自体は賛否両論である。

 つまり,「Webにおいても,活動に参加する人は『まとも』であるべきか」という問いに,私は一貫してノーと言い続けてきた。最低限の規則を守っていれば,人間自身の素性に関わらず参加できていいんじゃないかと主張し続けてきた。日本のWikipediaに多大な貢献をされている方は,そういったように見える仕組みを回すことがどれだけ難しいかを身をもって知っており,私の考えの楽観さを「見抜いた」。また,論文の書き出しを必死になって書いて,ゼミで見てもらった際,「知識をちゃんと管理するには,規範をちゃんと守れる人に参加を限るべきだろう」というように読める草稿を書いてしまったことをご指摘頂いた。

 この議論は上記記事中にも登場する。

ジョセフ・リーグルは、ウィキペディアの文化について書いた本に『Good Faith Collaboration(善意にもとづく共同作業)』というタイトルをつけていますが、実態はそんなきれいなものではない……と腐したいわけではありません。

ネットにしか居場所がないということ(後編)

 わざわざこのようなことを書いているということは,Reagle"Good Faith Collaboration" がそう読まれうることの裏返しである。本書では,Wikipediaで使われている様々な明示された規範が,百科事典を作るというプロジェクトをどれだけ巧妙にうまくいかせたり,いかせなかったりしているかということを主張している。有志による日本語訳があるので,読むと良いと思います。

good-faith-collaboration-ja.github.io

 この本は思い出深い本である。今の指導教授が帰国し,院生向けの輪講を本格的に始めた時に選んだ本が本書だった。私は「社会」というものを研究する際に,人々がどうやってその場の秩序を理解し,それを身をもって示しながら秩序を組み立てているかを見るエスノメソドロジーという研究プログラムに興味を持って,社会学に移ってきた人間である。しかし,エスノメソドロジー研究の主流は,対面会話や,そこから広がった実世界の身体や物体とのインタラクションの研究であり,Webでのやりとりや「知識」といった実体を持たない対象については研究できるかどうかもわからない状態であった。その中で,本書はエスノメソドロジーに影響を受けたアプローチでWikipediaを研究していた。いけるんじゃないかと思って博士課程に入って3年目になる。

 「いける」というのはどういうことかというと,もっとウェブでいろんな領域でいろんなことができるんじゃないか。特に,できるだけ障壁が少なく,専門的な領域に参加することができれば,その人がWebでもリアルでも生きる可能性が広がる。そういったことは楽観論なのだが,その芽が出ているのなら拾わないといけない。それを「いける」んじゃないかということである。

本題

 こう書いていくとまた可能性の話に戻ってしまう。違うんだよ。俺が書きたいのは「なんで俺が可能性を必要としているのか」ということだ。その前に「社会人」「博士課程」「ギークハウスを元にした界隈で楽しくやってそう」が全部うまくいっていないことを語る。

 俺は朝起きることができない。日中に外に出ることも難しい。昔はちゃんと規則正しい生活を送っていたのだが,2006年に一回社会から切り離されてから,主に夜にしか活動していない。というのも,朝型夜型といったものではなく,「人生を楽しんでいる人」「ちゃんと生きている人」を見るのが本当に辛くなったからである。朝に起きること自体は難しくないのだが,外を歩く人が辛くて嫌になってしまう。家で朝作業をすることは,そんなに悪くないのでよくやっている。

 この段階で,日本の,そして恐らく世界のほとんどの企業に入社することはNGである。修士号をいただいてから,1年曖昧に過ごしていたら,それでもよいという条件で今の社長からオファーをもらった。

 で働いてみたら酷い酷い。これは会社のことではなく俺のことだ。受託であっても共同開発であっても,プロジェクトが一定の段階を過ぎると,何らかの揉め事なりアンフェアなことなりがおこる。進捗が出ていない人が見過ごされ,出ている俺に心理的圧力がかかる。ありえない無茶を振られることもある。2回,大きなブチ切れを起こした。この段階で,日本の,そして恐らく世界のほとんどの企業においてはNGである。2回めの時はさすがにもうできる仕事がないのではと思った。

 困り,とても困った結果,割と空間データの中でも特殊な(空間データはだいたい特殊である)新しいものを扱っていたため,それを深く掘って強みとする「研究開発」を提案した。弊社は技術を売りにしたベンチャーである。通った。そして,その2週間後にどんぴしゃりな研究開発系案件が来た。さすがに過去の失敗から学んだので,同僚の非常に多大な助けを借りながら,なんとか続けている。他の仕事も少しずつ始まっている。この記事を書いたらコードを書く。

 常に困っていることがある。まず,根本的に俺の個人に起因する問題点はゼロにはできない。発達障害障害者手帳はすぐに降りた。なので,今うまく行っていても,常に失職する可能性はある。というか,もう最期の手を使ってしまったので,次なにかやらかしたらさすがに辞めるしかない。辞めたら,日本の,そして恐らく世界のほとんどの企業に入社することはNGである。まあ死だろう。これを「即死リスク」と呼ぶ。

 そんな俺が考えたのが前述のWebの「可能性」である。しかし,今のWebの現状を見るに,自由な参加によって価値を生み出し,それで生きていくことは難しい。俺が死んだらそれは運命で仕方のないことだが,次の世代に俺のような苦しみを背負わせたくない。だから,俺は「可能性」を自分で研究することにした。

 会社の次は博士課程か。嫌になってきたな。会社は博士課程に入ることを快諾してくれた。専攻も融通を効かせてくれた。しかしその道は厳しい。1つには,研究そのものの難しさがある。特に,Webの「可能性」を研究するなら,アラン・ケイの言うとおりシステム提案が常道である。しかし,私は「今Web社会で行われていることの,先端的事例」を理解することで,可能性を追求することを目指した。ということで調べてみたところ,Social Webの研究では「現状」の分析は行われているが,それがどのような可能性を切り開くかについては及び腰である。研究テーマとして成立させることがそもそも難しいのだ。

 もう1つ,大学院という環境は,俺の生活やコミュニケーションの問題を一定以上考慮しない。要は辛い。14時45分から始まる専攻全体の英語論文を紹介するゼミがあり,日中活動できない俺はなんとか起き,英語力だけで乗り切った。今年は一応3年なのでスケジュールや担当の割り振り,司会などを引き受けた。なぜ俺のような人間がやっているのだろうか,ちゃんとできるだろうかと思っていたが,昨日ようやく終わった。終わった時は「ちゃんと終わらせることができました。ありがとうございます」と頭を下げた。

 また,ゼミで感情的になってしまうこともしばしばある。突然自分のしたい議論をぶっこんでしまうこともある。そういうことをやるたびに,申し訳無さでいっぱいになる。酷いのは学会である。1回無理しすぎて倒れている。その他その他小さいことも含めるといろいろある。

 もう1つ酷いのは無力感である。博士課程なので,俺よりできる人がたくさんいる。彼らは査読論文も出しているし,有名な学会で発表もしている。俺は「社会人学生だから」と言ってその問題から逃げるとともに,実際に割けるリソースが少ないので,難しい文献を積極的に選んで読んできた。リソースが少なかったら簡単なのを選ぶんじゃないの?違う。難しい中身の詰まった文献は短い時間で多くのことを語る。そして,それを読めるということをもって,なんとか自身を保ってきた。先週は会社を1週間休み,論文の構成と,理論的な文献購読に使った。結果かなり良い成果が出せた。会社がなかったら実は俺はけっこうできるんじゃないか。思ったがそうはいかない。結果的に俺は無力である。

 で,次か。「ザ・ノンフィクション」で今年ギークハウスが取り上げられ,少し出演したところ思った以上に多くの知り合いが観ていた。日曜の15時にテレビ見てるなんて奇特だなー,インターネットやれよとか思ったりするのだが,ギークハウスは1年毎に不義理をしてコミュニティを変えていた俺を,長い間居させてくれた界隈である。いろいろなことをやろうとしたし,集まってくる人はそれぞれの事情があったりなかったりするので,いざこざや揉め事,不義理もある。「ザ・ノンフィクション」では良い部分をピックアップしてくれているのだが,それが良いことなのかはわからない。

 その中で常に思っているのが,家があって集まっているだけではまだ足りないということである。phaさんは有名になった。phaさんのいる場所も何度も変遷を遂げながら継続している。それ自体は素晴らしいことで,救われた人も多いと思う。しかしそれで全ての問題が解決するかというと,もちろんそういうことはない。だったらギークが社会に何ができるか。

 例えば行政のデータ公開を市民参加に結びつけるオープンデータ活動をやったりした。割とやったところ,議員の方なり行政の方なりNPOの方々なり,各所で「猛者」な人々と知り合って,一緒になにかやったりもした。しかしそこはやはりコミュニケーションの支配する空間,簡単に言うとうまくやれなかった。

 で,ギークハウスに関して言えば俺は住人ではない。両親が離婚し実家に夜逃げしてきて,母や祖母も亡くなったので結果的に生き残った俺が実家の1階を継いで,そこに住んでいる。はっきり言って俺の配慮のなさと生活能力のなさは酷い。毎日同じ所で暮らしていたら,あっという間にボロが出るだろう。そうでないから,界隈にずっといるのだ。それでも,軽率な言動や不義理をしてしまい,人間関係に支障があることもある。

 なんか,嫌になってきた。本当に嫌になってきた。この感覚が伝わってくれると本懐である。結局,会社では周囲に助けられながら常に不安を抱えているし,強い意志を持って入った大学院も実力とコミュニケーションが伴っておらずうまくやれない。ギークハウス界隈には居させてもらっているのにろくなことができていないばかりか迷惑をかけている。それが,実情なのである。

 だったら全部やめちまえよ。不満を言わず迷惑もかけずおとなしく暮らせ。もっともである。周囲が見ているほど俺はまともではないし,ギリギリで生きている。その上でいろいろなことをやってろくな成果も出せず迷惑をかけている。「自分の成果をあまり卑下したら助言や協力をしてくれた人に失礼」と言われてハッとしたことがあるのだが,それを踏まえると,これだけ助けてもらってこれだけのことしかできない自分に後ろめたさがある。もっともこれは主観であり,やめてひっそりと生きるべきかということについては正直判断がつかない。

 結局俺は「やっている」だけなのである。「できる」からやっているのではない。単にやっている。で,その選択肢も広くないので,特定の何かをずっとやっている。それだけなのである。だから苦労があってもしがみつくし,できないことを常に悲しむ。不義理をしてしまったらそれは俺の責任として引き受けるしかない。良いことがあればそれに越したことはない。

 表題に戻る。今の俺の立場にはいろいろな見方や評価があるだろう。しかし,それに至った経緯はこう表現するしかない。それくらいしかやることがなかったから。できることを武器にしてガンガン進んでいくような能力も自信もない。Linusのように「それが僕には楽しかったから」とクールにも言えない。それくらいしかやることがなかったから。

 だから,「それくらい」の範囲を増やすため,活動への参加の敷居を下げるWebの「可能性」にもまた,しがみつくしかないのである。

インターネットってクソだよねー的な話について

ガード下 Advent Calendar 2017

なんかインターネットはクソだみたいな議論があって、割りと一般に共有されてる感覚なんじゃないかなーと思い適当に書いていく。

まず、「インターネットはクソ」の類型を適当に並べると

  • 情報を探す媒体としては、中身がなかったり嘘だったりとクソみたいな記事が大量にある
  • コミュニケーション媒体としては、単に感情を吐き出す場になってて、集まっても炎上させたりろくなことしないからクソ

というあたりだと思う。

 もしインターネットしかなかったとしたら、インターネットは人々の日常なので、「人間クソだねー」という話になるので、そこには比較対象があると思うのだが、まあ現実世界のことだと思う。例えば組織におけるコミュニケーションはだいたいシュッとしているし、紙媒体もだいたい正しいことが、だいたいちゃんと書かれている。

 インターネット、というかWebの可能性として言われてきたことは、情報発信やコミュニケーションを個人が自由にできるようにすることで、これらの現実世界の特権から解放されてもっと良くなっていくんじゃないかということだった。そして、それはうまくいかなかった。裏切られた、インターネットはクソだ。そういったものだと思う。

オルタナティブとしてのインターネットはあまりスジがよくない

 この「現実世界の特権から解放されてもっと良くなっていくんじゃないか」というのは、明らかにオルタナティブ、つまり今の人生と違った代わりの人生を探す考えである。その観点では、今Webで流通していることとしては(そうでないことについては山下陽光「バイトやめる学校」などに詳しい)

  • アフィリエイトブログや仮想通貨など、多くの人がやっている方向をやるか
  • それとも、才能がある人間やすごい努力を出来た人間が「俺はやっていった」と新しい方向を切り開いていくか

のどちらかだと思う。まあこれは一種のディストピアである。昔からやっていった人間はやっていったし、流行っているものに飛びつくなら雑誌を読めばいい。インターネットに独自の「代わりの人生」などまるで流通していない。

 むしろ、それを阻害する要因をインターネットは多大に提供してきた。今の人生が嫌だと思っていたら、酒を飲んで、さらにソーシャルメディアで愚痴を書けば良い。また、「こういうことをやってみたぜ!」と報告しようとしても、SEOを行う大量のクソブログの中に埋もれてしまう。知識として溜まっていかない。そもそも、あまり大したことをしていないと思ったら、情報発信をするモチベーションがわかない。

しょぼい人生ノウハウを公開するという方法

 さて、ここから1つの可能性を検討するわけだが、その前に人生に関する問いをしよう。ここに、適当な人生を持ってきました。

表1 ライフプラン表の例 ― ヤングファミリーのためのライフプラン|知るぽると

これとほとんど同じ人生を送ってきた人はどれだけいるだろうか?まあいるとは思うのだが、本質的な話ではない。ここで言いたいことは、それぞれ異なった人生を歩んできて、それぞれの生活を楽にする習慣なり、少しでも何か他の人がうらやむことがあるかもしれない、ということだ。

 宗教だとここで「あなたの人生をグアっと変える方法があります!」とか言うのだが、私は宗教家ではないのでそれはやらない。重要なのは、いろいろな人がインターネットに参加して、情報発信とかコミュニケーションができるようになったにも関わらず、どうして生活を楽にする習慣とか、人がちょっとうらやむような物事や金を稼ぐ方法とかに簡単にアクセスできないのだろうか?ということである。そういうことは極めて基本的なレベルで共有されていない。私は、祖母がなくなって一人で実家に暮らすようになった際、まず洗濯機の使い方から学ぶことになった。

 ギークハウスの pha は、そのあたり書籍でうまくやっている。「持たない幸福論」(だったっけかな、違う、「ひきこもらない」だ)とか、本当に大したことのない生活習慣を大量に集め、パッケージ化して誰でもphaの生活をできるようにしている。先程紹介した山下陽光「バイトやめる学校」は、「誰でも自分なりの稼ぎ方ができる」と銘打っているが、正直彼自身の才能があるので俺は出来ないなーと思う。

 重要なのは、こういったなんでもない事柄をWebで発信したりアクセスできる状況にはないということである。ちょっとした工夫やノウハウは、金につながるものにせよそうでないものにせよ、人生を変えることにつながる。そういうのを手軽に発信して、自分に合ったもの合ってないものを探せて、自分なりにやれて、さらにその経験を共有して情報源にしていく。そういったものがあると良いんじゃないか。

 というのも、私は質問回答サイトStack Overflowの研究をしている。その中で、「なんでもない事柄」を気楽に共有し、アクセスできるようにすることが、どれだけ巧妙な仕組みで行われているかが少しずつわかってきた。そのなんでもなさは尋常ではなく、vimを終了させる方法が100万人の役に立っている。質問回答というのは人から知識を引き出す良い手段で、しょぼいことを発信することには障壁があるが、しょぼいことを聞いて答えるという形になったら一気に楽になる。そして、自分が当たり前だと思っていることでも、聞かれて答えることで言葉にできる。まあそういったことが積み重なって資源となる。

 今の段階では、Webエンジニアなどの職種が幅広い人々に門戸を開いていることからして、プログラミングをできるということがオルタナティブの1つとして見られることもあるが、それは知識に簡単にアクセスでき、オープンソースという形で道具にもアクセスできるということに基づいている。そして、質問回答はその手段の1つとして、メーリング・リストの時代から確立されている。だからといって誰でもエンジニアになれるわけではなく、N高のプログラミングコースの終了率や、今は手元に論文がないが、MOOCsのコースの終了率が高くないことに、それが見て取れる。しかし、知識だけはアクセスできる。

 そういったことを、もっと幅広い領域でできたら、インターネットはクソでなくなるのではないか。その中にはプログラミングと共通する方法もそうでないものもあるだろうし、簡単な道ではないだろう。だがしかし、今のインターネットの無力感を打破する一つの手段ではあるだろう。ここでは知識のアクセスの問題を扱ったが、ほかにも色々あると思う。

それでも俺は圧倒的な世界を見たい

ガード下 Advent Calendar 16日目

 このブログで継続的に書き続けているとおり、私は人を自由にする技術を継続的に考えている。だからといって何か特別なことをしているわけではなく、人文社会系の研究の進め方は、基本的な点では似通っており、それを忠実にたどっている。私などが解説したところでたかが知れているのでKMDの奥出先生の議論を引用しよう。

okude.blogspot.jp

 これは非常にクリアに書かれているので、いかなることをしている方でも読んで損はないと思う。研究は知識の連鎖から成り立っている。そして、その中に自分のなすべき課題を論理的に構成していく。それをできたところでようやく自分の思考が自由になる。

 私は技術と人の関係の中でも、専門的な知識の在り方、専門性へのアクセスの話に焦点を当てている。当然、これも過去の知識の連鎖の中に位置づける必要がある。そして、それを始めて既に1年半が経過している。

 基本的に、知識はちゃんとまとめられていたほうが良い。一方で、それからある意味ではみ出した、誰でも情報を公開でき、知識をつなげる手段も柔軟になったWebは、人が物事を行う可能性を広げるという主張がずっとなされてきた。しかし、これはまさにいま書いている論文の核心なので詳しく述べないが、ほとんどの既往研究はWebをそう見ていない。

 人の自由と技術の問題については、学術研究においては問題を提起することすら難しい。ハイパーテキストの提唱者の1人であるTed Nelsonは、皆誤解しているが社会学者である。彼はタルコット・パーソンズが設立したHarvardのDepartment of Social Relationsという大学院に1960年に入学し、そこは間違いなく世界で最高の社会学の研究拠点だった。全くもって社会学の正統と言える。そして、彼は入学した途端にコンピュータにハマった。その中で、小集団研究の(エスノメソドロジストにとっては、「エスノメソドロジー命名の由来」でよく知られた名前だろう。もしくはStudiesの1章の事例にも出てくる)Freed Balesによって「コンピュータは人の個性やアイデアを表現する最高の道具だ」との示唆を受け、その考えは数年後にハイパーテキストとして結実した。

 しかし、ハイパーテキストはその当初評価されなかった、いわば鬼っ子であった。ハイパーテキストの原論文はACM(当時はCHI、SIGGRAPHなどの分科会はなかった)で発表されたものとされているが、実際にはその前にWorld Documentation Federationという図書館情報学の学会で発表された。その時に杜撰な扱いを受けたようで、具体的な箇所は忘れたが「リテラリーマシン」では「図書館学の人々にはわからんだろうが」みたいなことが書かれている。また、自伝ではほんの少ししか語られていないので何かあったのかと思うのだが、パーソンズとうまくいかなかったようで、大学院を修士号をもらって中退し、イルカの知性の研究に従事し「イルカは素晴らしかった」と述べている。ここからはよく知られていることだが、40年後に慶應義塾SFC論文博士を取得している。どうやら、ハイパーテキストは、その構想段階では、いろいろあったようだ。そして現在もいろいろある。

 その後、様々な概念やバズワードが産まれては消え、その際に毎回「人を自由にする技術」としてコンピュータが注目されてきた。恐らく、私もその1人なのだろう。しかし、その側面を知識の観点でちゃんと見てきた研究は、ほとんど見られない。一種のアンタッチャブルな話題として扱われてきたか、もしくはうまくいかなかったのだろう。

 話を戻すと、私は現在保守的な研究がほとんどを占める中で、自分の理解したい方向に話をつなげていくという状況にあり、その間を埋めるのは本当に骨が折れる作業である。特に私は

niryuu.hatenablog.com

で書いたとおり、一回社会から切り離されている。そういった状況に置かれた人々をどうにかしたいと考え、今の研究をしている。これは奥出先生のこの記事

okude.blogspot.jp

でいうところの「情熱」であり、譲ることができず、またそうだからこそ難しいことを行わなければならない。しかし、しかしこれは心が折れる作業である。そして、既往研究をまとめた帰結として当然「このような研究は難しい」という考えに至る。このような状況下で、精神が非常に不安定で、昨日ゼミで発表した際は、我慢を続けていた感情がついに表に出てしまい、皆に迷惑をかけてしまった。

 このまま闇雲に続けるわけにはいかない。少なくとも自分がどういった状況に置かれているかくらいは知っておかないと、人に迷惑をかける。「情熱」は、エゴだ。だから、学術的な議論として説得的に語らなければならない。そこで、自分が前に書いた記事を思い起こした。

niryuu.hatenablog.com

 私は、自分を「圧倒的な人間を見ているだけの人間」として自己規定してきた。しかし、今私がやろうとしていることは様々な観点から見て難しい作業で、正直に言うとどこかを妥協するのが、博士号に向かう正統な道だろう。しかし、しかし、単に博士号を取るためではなく、自らの知りたいことを知るために大学院に来たのだから、その道は選びたくない。

 だとしたら、結果的に私も「圧倒的な人間のやっていること」に足を踏み入れている。それはそうだ。「できる」と言っているのは圧倒的な方々で、彼らにとってはできると想定できることなのだから。そして、私には残念ながら一定以上の才能はない。結果的にどこかで物凄い負担が来るということになる。そして、耐えられず他の方々に迷惑をかけてしまっている状況にある。

 上記記事の「圧倒的」概念の基になっている小説がある。

やる夫短編集 (,,`д`)<とっても!地獄編 【やる夫で】学ぶ冒険者生活の現実【世界樹の迷宮Ⅱ】

簡潔にまとめると、主人公は職にあぶれ、死と隣合わせの迷宮で稼いでいる。その中で、街で一番強いギルドに偶然入ることができるも、迷宮でも下層にあたるところに現れたモンスターに、自分より明らかに強い面々が斃されてしまう。そこから様々な選択が出てくるのだが、物語の正式なルートでは、直後にどんな敵でも一瞬で倒すことのできる強さを持ったギルドが現れ、彼らに同行することに成功する。そして、迷宮の最上層に向かう直前で、最後の選択を迫られる。これ以上は同行させることはできないと言われるのだ。そして、これまで同行させてきた理由は、街で一番強いギルドが壊滅したトラウマにより、自分で自分の能力に枷を課していたように見えることであり、そしてそれが解消された今、自分の身の丈に合った「冒険」をすべきではないかということである。そこで「身の丈に合った冒険」をする方向に進むと、街で一番強いギルドの敵討ちをしようとし、死んでしまう。しかし、別のルートでは主人公は最後までついていくことを選ぶ。それを、圧倒的な人間はこう表現する。

一歩下がって過去と対決するのではなく
前に突き進む事で過去を葬り去る
その為の手段は問わない、方法は選ばない、自力にこだわらない
結果としての果実を手にする事で
全てを解決させる―――

 祖母が亡くなり天涯孤独になり、これからの人生をどうしようかと考えていた私は、これを読んで行くところまで行ってみよう、いや、行ってやろうと思った。一方で、この連載中に付いたレスではこう書かれている。

言ってることは決して間違いじゃないとは思う
自分の力で道を切り開けず野垂れ死んだものより、寄生してでも目的を果たせたものの方がいい、と考えるのはありだろ
他人の目から見てどう思われるか、とかそういうことを一切考慮しなければ……

 正直に言えば、私などは出来の悪い博士課程学生の1人に過ぎず、私の研究などに関心を持つ人などいないと考えている。その点で、私は「寄生して」いるだけであった。しかし、私が見たいのは単に寄生しただけでは見られないことである。

 この研究は恐らく失敗する。どうしようもない形として。しかし、それでも俺は圧倒的な世界を見たい。道が問われている。

 図を書いてみたが、恐らく答えは出ていそうな気がする。

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