俺のレールと人生について

「レール」という言葉をきっかけに男たちが人生について語っている.

大学院在学中にレールに乗ったまま起業した話 - chokudaiのブログ

本の虫: レールに沿わない人生を送っていたら、未だにレールに乗れていない人間のお話

俺もちょうど人生の節目が来ているので,人生について語るとする.全部入りは初めてだと思う.

良かった頃

 俺は1985年,東京葛飾に産まれた.出産は東京女子医大だったと思う.柴又ではなく立石なので寅とは関係ないが,様々な場所に出入りして女性と出会い,別に何もせず「こういう女性っていいな」と思いながらその後会うことはなくなるというのを何度かやっているため,寅の精神,スピリット・オブ・トラは継いでいると思う.

 小学校3年まではまあ凡庸だった.父親は電話設備の会社をやっており,光ファイバーを引ける数少ない人物として重宝されていた.給料も良かった.母親は重度のてんかんで何度か死にかけており,俺が小学校2年の時にいよいよ死ぬ可能性が高まったため,当時治験中のVNSという迷走神経を刺激して発作を止める装置を入れた.結果が医学論文にイニシャル付きで掲載されているのを数年前にインターネットで見たが,なくしてしまった.VNSは「安全だ」と言われているが精神に悪い影響を及ぼすようで,母親と同じ時期に装置を入れた人間は死んだり狂ったりしてしまった.その時期父親が何を狂ったか銀座のクラブにはまり,借金を5000万ほど作った.家には大量の督促の電話が届いた.

成績は良かったが家庭は壊れていた

 結局駄目になり,母親と東京中野の実家に夜逃げした.父親とは1年後に離婚した.この時小学校4年であるが,中野に受験塾の四谷大塚の本校があり,入塾試験を受けたら俺がとても偏差値の高い人物だということが判明した.それから母親の頭に火が付き,しかし金が無いため過酷な自宅学習を受けた.朝食前に覚えてもいない漢字テストをやらされ,当然できず,怒られるところから始まり,夜は1問間違えたら延々と怒られ,怒り疲れたら寝るというありさまだった.それでも俺は信じていた.良い中学に行って良い人生を送れるということを…

 開成と筑駒と城北を受けた.城北だけ受かった.城北も悪くないところである.行けば良い人生を送れるだろう.しかし母親は言った.金がなくて私立には行かせられない.結局,区立の中学に行った.そこが周辺でもっとも荒れた中学だということを知ったのは10年後のことである.中学が始まった直後,祖母と母親と俺で暮らしていたのだが,祖母に2000万の借金があることが判明した.いろいろ揉めた結果追い出されることはなくなった.その冬,母親が俺の受験と祖母の借金でいよいよ疲れたのか,狂った.なんだかよくわからないことを言いながら徘徊する生物となり,とりあえず救急車で東京女子医大に搬送された.緊急なれど病床がなかったため手術室に寝かせたら,手術道具を全部壊して帰ってきた.俺に「お前は馬鹿だから最初から教えないといけない」と言われ「あいうえお」から教わった.

 俺はぐれた.ホームレスになり,タンポポを食べたりして生き延びた.半年後帰宅した,精神科の治療が効いたのか母親は割とまともになっていた.俺は原宿の代々木ゼミナールの授業料を免除され,高校受験を目指すことになった.インターネットを始めたのもその頃である.正直,受験は嫌になっていた.もらった夕食代を全部インターネットカフェに使い,代ゼミでは授業の最後の10分テストが出席を兼ねていたため,それだけ受けて帰っていた.10分テストの成績は1位だったが,新しい生徒が入ってきて2位になったので1位を取り返した.

 高校は東工大附属に行った.中学から「お前ADHDだろ」と言われたことがあるし,突然ブチ切れたり精神が不安定なのは自覚している.規則にも従えないし時間も守れない.だったら校則のほとんどない学校に行けば良い.高校では定期券が秋葉原を通ったため秋葉原に毎日,週8で行ったこともあった.高校自体については以下を参照.

niryuu.hatenablog.com

 東工大附属は凄く,どんなにブチ切れたり問題を起こしてもテストの結果さえ良ければ良い成績が取れた.このため,推薦で電通大の情報通信工学科に進学した.

人生が駄目になったので死ぬつもりで社会学

 大学入学後1年間は割りと普通の理系大学生をやっていたと思う.成績は上の下程度,オタサーの姫もいたし,駄目な人間もいた.1年後,母親がVNS装置のもたらす負担についに嫌になって,装置を外してもらった.その1ヶ月後,亡くなった.俺は大丈夫なように見えて徐々に弱っていった.2006年6月2日,必修科目「情報通信工学実験A」を落としたのが決まった.いわゆる留年である.

 完全に理系への自信をなくしていた.もしかしたら情報工学科でプログラミング言語論や計算論などをやっていたらそれなりに才能を発揮できたかもしれない.しかし,情報通信工学科は電子工学を含む.そこはからっきしだったのだ.もっとも,そういったことは些細なことである.その頃「べき乗則とネット信頼通貨」というコミュニティに所属しており,そこで社会学の重要性を教わって独学を始めた.やるべきなのは,面白いのは,社会学だ.社会学をやる.電通大には人間コミュニケーション学科があり,そこで社会学の文献を読んでいる情報経済論のゼミがあった.転科は2年次でしかできないので,3年次編入学試験を受けた.鬱で昼間外に出られないのと,金が無いので,夜間にした.夜間で合格は俺だけだった.情報通信工学科は退学したので,留年ではない.

f:id:kybernetes:20160920200353p:plain

 人間コミュニケーション学科は良い学科で,教授も素晴らしく,無事卒業できた.途中で発達障害と診断され,今に至る.その後,社会学の一分野たるエスノメソドロジーに人生を賭けるべく,埼玉大の文化科学研究科の修士に進学した.埼玉大ではヒューマンコンピュータインタラクション,特に当時流行っていた拡張現実感技術がどう人に使われるのか,もっと言えば空間というものがどう会話や身体的相互行為によって扱われるのかを研究した.ここも素晴らしかった.しかし,自分で決めた研究テーマだったし,コードも書いて社会学的分析もしてというのは難しかった.その時の経緯はここにまとめてある.

d.hatena.ne.jp

追記:この記事の段階ではまだ研究は終わっていなかった.あと1回実験をやり,そのおかげで空間というものを人がどう理解しているかについての深い洞察を得て修論は完成した.遅きに失した部分はあったが少しは光明は見えていた.研究については情報処理学会にて発表をしようとしたが,当日に嫌な予感がしてサボってしまった.2011年3月11日の話である.

社会学は厳しかった,しかし社会はもっと厳しい

 正直俺には研究は向いていないと思った.修士2年の5月,オープンソースSNSの会社でバイトを始めた.将来そこに就職できたら生きることはできるだろう.そして修士修了直前の1月,海外のスタートアップのCTOを探しているという話があり,おっCTOと思って飛びついてしまった.その結果は以下のとおりである.

niryuu.hatenablog.com

 まあこのことは置いていこう.修士を出てCTOとして破滅して9ヶ月間は曖昧に過ごした.オープンソースSNSの会社に出戻ってバイトをやったり,映像配信機器のテスターをやったり,Android開発の先生をやったりした.2012年の3月,いよいよ金が尽きそうになった.1月に今の社長と最先端のコンピュータビジョン技術をiOSに移植する単発の案件をやったのだが,それが良かったようで今の会社の正社員となった.正直正社員などできると思っていなかったが,勤務先自由,完全フレックスという破格の条件である.また,基本的には地理情報に関する経路探索などのアルゴリズムの研究開発ということだった.できるかもしれない.

 入社したところ,研究開発はなかった.案件を3つやって,3つ目で俺特有の人とのコミュニケーションで負担を感じたり悪意を感じやすい性質と,ブチ切れてしまう性質が発してしまい,案件から離れることになった.1年間自社サービスを作っていたがどうも成果は出ず,申し訳ない気持ちになった.そんな中,社内での人のリソースが足りない状態で難しい技術が必要な案件が始まったので,「できるかどうかわからないがやってみる」と決意し,案件に戻った.

俺,どうなってしまうんだろう

ここからの人生はいろいろなことが錯綜する.

 1つが実家の壊滅である.2013年,叔父が脳卒中心筋梗塞をやって働けなくなった.バブル期に借りた金が億単位の借金になっており,それがまだ少し残っていた.祖母が連帯保証人になっていた.このままでは家がなくなってしまう.俺は稼ぐために本業の他にフリーで案件をやった.デスマーチを1つ引いてしまい,とてもひどかったのでスライドにした.一部の人々には見せているがまだ公開できない.その後,叔父の妻が亡くなって死亡保険金で借金は払えることになった.その数ヶ月後,祖母が倒れた.脳卒中だった.このあたりについてはあまり書きたくないのでリンクを貼る.

niryuu.hatenablog.com

niryuu.hatenablog.com

 1つが博士課程進学である.案件から離れた次期に,日本社会学会の大会があった.そこで知的に興奮し,才能はないが研究は続けたいと思った.数年間ゼミに潜らせてもらった.その途中で実家が壊滅した.資金面や生活面(介護)などで強い制約を受けてしまったのを経験したため,人生でやっておきたいことがあるなら今どんなに無理をしてでもやるしかないと思った.ちょうどその時今の教授が院生を取れるようになった.今しかない.今度は慶應義塾図書館・情報学の院に入学し,社会学をやっている.社会人院生でまた多少難しいテーマをやっているため苦労もあるが,今度の学会発表はうまくいきそうだ.良い師に恵まれていると思う.

 そして仕事である.案件は3年目を迎えた.案件の進行上,最先端の技術だけをやるわけにはいかず,どうしても顧客とのコミュニケーションが必要になる.また,この案件はマネジメントが難しい状態になっていた.正直,社会人院生のためデスマーチに巻き込まれるのは勘弁して欲しい.その思いから常に気が立っており,状況を悪く捉え,顧客とのコミュニケーション上の新しい技術なども導入したが限界が来てしまった.今年の9月16日,これ以上は無理ということで案件から離れた.やはり俺には案件は無理だったのだ.

 今,絶望の中で,学会発表の予稿の合間にこの文章を書いている.今後どうなるかはわからない.最悪のケースを考え,今年2月に休職した際の傷病手当金の期限を計算した.また,失業保険が障害者の場合300日まで延長されるということを知り,障害者になれば博士課程3年までもつということがわかった.その上で会社でできることを探していくことになる.社長はこんな俺にもまだ能力が高く,可能性があると言ってくれている.

結論

 俺にはchokudaiさんのような才能はない.しかし,それでも良い人に導かれればそれなりのことができるし,そういう意味でのレールというのは素晴らしいものだと思う.また,俺は江添亮が嫌いであるが,結局運だということについては同意する.それを踏まえた上で,レールに乗るか外れるかなんて考えていられる時点で,恵まれているということをわかってほしい.

技術者について

明日が技術者としての最後の仕事になるかもしれないので,ここで私が知った技術者というものについて書く.
 技術者は,少なくとも現在存在しないものを作る.このため,最初の段階では作る道筋すらない場合もあれば,試行錯誤を繰り返しても条件を満たすものができないこともある.見かけ以上完成したものがあったとしても,それが問題点をはらんでいると思われる限り,完成だということはできない.そのようなことを全て考慮して始めて納期などを設定できる.
 このため,我々は常に現実的に実現可能なものにしか関わることができない.他の職業の方々なら好き勝手に物事を語ることもできるだろう.しかし我々の世界は狭く,自分が進んできた,手の届く道を手探りでやることしかない.所詮技術者は無力な人間である.
 このため,好きに物を言える立場の職業から比べたら技術者は下等な職業であり,下賤である.無力な我々は他の職業の方々から批判をされ,不満を告げられ,罵倒されるのが当然である.我々は自らを誇らない.社会の中で泥をかぶり,その無力さに蔑まれ,その結果何を得ることもない.我々は自らを誇らない.

「〜は死ぬべき」に対抗するのは「〜は生きていて良い」ではないと思う

今回の虐殺事件は,様々な点で人間の心をえぐり出すものだったと思う.

 私もいくつか思うところはあり,なんとか抑えていたところもあるが,いくつかの記事を読んでこれは看過できぬと思い記事を書くことにした.

zen-iku.jp

zen-iku.jp

d.hatena.ne.jp

 これらの声明や記事は実際にこの事件に関わる大きな社会課題に取り組んできて,その意味で強い主張で発信している,これは非常に重要なことで,物事を進めていくために彼らのような意志をもってやっていくこと,またそれを実際にやっていることには敬意を表する.

 しかし,この主張ははがゆい.

障害のある人一人ひとりの命の重さに思いを馳せてほしいのです。そして、障害の有る無しで特別視されることなく、お互いに人格と個性を尊重しながら共生する社会づくりに向けて共に歩んでいただきますよう心よりお願い申し上げます。

http://zen-iku.jp/wp-content/uploads/2016/07/160726stmt.pdf

 

 「障害」に伴う困難は、たとえ重複障害であったとしても人間のすべてを覆いつくすわけではなく、解消不可能なわけでもない。多くの人たちから支援を受けて、社会のあたたかさを感じながら(しばしば裏切られながら)みんな喜びも悲しみも経験していく。絶望を経由して得られた夢や希望だってある(もちろん本人と家族とでは違いがあるだろうけれど)。

「障害者」のリアリティをもって抗いたい - lessorの日記

 これらは,恐らく実際に障害者の尊厳を守るために戦い,少しずつでも幸福を目指せるように戦ってきた人々の,生の言葉であると思う.しかし,だからこそなのだが,障害者を「外から支援する立場」から逃れることができない.つまり,今回の事件が浮き彫りにした「障害者は死ぬべき」というテーゼは,障害者を支援する人以前に障害者自身が抱えている問題でもあるということを,見過ごしてはいけない.

 現代は「死にたい」と思いやすい時代であると思う.生まれ持ってもしくは後天的に障害を持ちながらも,もしくは健常者でも経済的社会的に追い込まれていてもなんとか生きている友人は多い.私もその一人だ.そして,幾度となく死にたいと考えてきたし,死にたいと告げられたこともある.インターネットはそういった発言で溢れており,そのうちのいくつかは本音だろう.

 「普通」,死にたいと言っている人間は病気として診断され,精神科及び心療内科に通うことが適切とされる.一方で,何が死にたいと思わせたのか,その原因については,医療の範疇でなく,精神科が解決できないことが多い.人は「どんな状況でも生きていて欲しい」とよく言う.しかし,実際に厳しい経験をしている人の視点で見るとなかなか簡単にはそう言えない.

 その中で,誰かと助け合いながら幸せを目指すことは,認められるべきで,誰かに侵害されるべきではない.一方で,障害者についても健常者についても,今当事者が死について考えること,さらには死にたいと考えていることについてもまた認められるべきであり,誰かに侵害されるべきではないと考える.

 これはつまり,「あなたたちは幸福になって良い」「あなたたちは生きていて良い」という言葉もまた過剰な言い分だということを意味する.支援者が支援をする際に,当事者と共有して守っていく最も大切な命題であるとは思う.しかし一旦その外に出ると,「死にたい」と思わせる要素が溢れている手付かずの現実世界が待っている.そこでは,これらは単なるきれい事であるだけでなく,死について考えている人にとっては暴力にすらなる.

 結論として,誰かに安易に「死ぬべき」というのが適切でないと同時に,誰かにその個々の生きていることを考慮せずに安易に「生きること」を推奨するのも適切ではないと思う.まず守られるべきなのは,どう生きるかは自分が決定することで,その中には死ぬことを考えることも含まれるということである.そうでないと「死ぬべき」という攻撃的な主張と向き合うことはできない.

 「実際に死ぬ」ことまで含めて自由なのか,これは難しい問題なのでコメントは差し控える.ただし,我々は皆強制的に産まれさせられた.また,今回の施設において被害者の方々が「どう生きるかを決定できる知性があるかどうか」についてはわからない.そうでない場合決定は難しくなる.私は,祖母が事実上植物状態になった段階で,家や生活を守るために延命治療を拒否した.親族で概ね結論は決まっていたが,誰も言い出せなかったから俺が勧めた.これについては未だに悩んでいる.

発達障害として育っていくことについて

以下は体験に基づくものであり,何ら裏付けはないものなので単に書き留めておく.

 はてなブックマークの新着エントリを追っていると,それなりの頻度で「ママブログ」「子育てブログ」に遭遇することがある.その中で子の発達障害をテーマにしたものが,目につく程度には見られる.具体的な言及は避けるが,これらを読んで感じる違和感というものがある.

 発達障害に関するブログ記事の基本的なテーマというのはこういったものだ.

  • 普段の生活や学校でどういった問題が起きたか
  • 医師とどうやりとりをしたか
  • 特別支援学級に入れることも含め,学校でどう支援の交渉を行ったか

 これらを読んで,私が育った頃に比べたら,非常に手厚い支援が受けられるようになったとは思う.親,医師,学校など組織が一丸となってちゃんとした理解をし,支援していくというのは私のころはなかった.また,例えば2人子どもがいた場合障害の重さによって普通学級と特別支援学級に分ける(これである程度ブログが特定できてしまうかもしれないが)といったように,特性に合わせた支援も行っているようだ.

 しかし,これらの記事を読んで,何か子どもが育っていく上での重要な視点が潰されてしまっているのではないか,というのを漠然と感じる.支援体制が整っていくということは,裏返せば自分の人生の一部を支援体制に任せるということでもある.そこで,何か大切なものを親や学校の都合で簡単に売り渡したりしてはいないか.

 障害を含めて「自分に何ができて何ができないか」という問題は,子ども自身が学んで認識していく問題でもある.その上で自分のライフプランを組み立てていく.逆にそれができないと教育が成ったことにはならないと思う.その上で重要なのは,「何ができて何ができないかということを,試行しながら学んでいく自由」と「ライフプランを自分で決めることのできる自由」の2つであると考える.これらの自由が,支援が手厚くなることにしたがってむしろ奪われてしまうのではないか,というのが基本的な主張である.

 私の経験では,今に至るまで発達障害はとても厄介である.だから,実際に診断されたのは23の頃だがそれまでに既に「何ができて何ができないか」は相当の精度で知っており,それにしたがって将来の進路を決めてきた.

 まず,そもそも将来生きていける可能性が(家庭環境もあるが)少ないので,能力は伸ばしておくに越したことはない.ルールに縛られるのに耐えられないから自由な国立(こくりつの方.くにたちの方だったら多分ダメだった)の高校に行った.鬱病の時期に大学に通えない上に実験で厳密な提出期限を求められたので,さっさと辞めて実験がゆるい夜間の学科に編入した.そして,出社できないのでリモートワークで完全フレックスの正社員という話ができた時に飛びつき,伸ばした能力を活かしてなんとか4年働いている.その上で,基本的に厳しい自己管理が求められる博士課程への進学を「これなら大丈夫じゃないか」と決断した.

 自分で言うのもなんだが,極めて細い糸をたぐり寄せてきた.その年の電通大夜間の編入学は,全学科含めて10人受けて私しか受からなかった.会社にしても今の会社でなかったら恐らく国内に働ける会社はないだろう.博士課程もいろいろあるが,最高のタイミングで入学でき,素晴らしい環境にいると思う.「どうやって今まで生きてこられたのかわからない」と数人に言われたことがあるが,まあそれはこういうことをやってきたので普通にはわからないし,私にも本当のところはわからない.

 もちろん,これらを全てできたところで障害がなくなるわけではない.多く問題を抱えているし,問題が多すぎるので生活の主だったことを医師に告げることになる.人から恨まれたりすることも多い.しかしそれでも,障害を含めて総合的に生き方というものがなんとなく見えてきたのではないかというところである.

 また,「そういう生き方ができたのはお前の障害が比較的軽かったからで,ウチにはウチの事情がある」と言われたらそれはそのとおりだ.というか,そういったスペクトラムを含めてこの障害は構成されている.このことを踏まえて以下のことを懸念している.

 (1)基本的に支援は,障害の解消を基にしたものに見える.その場合,「自分にどういった問題や特性があるか」という重要なことを学ぶ機会を限定されてしまう,もしくは押し付けられてしまうのではないか.

 (2)学校で支援をするということは,将来の選択肢も含めて支援をするということである.その点で,「発達障害者の典型的な将来」がわかりやすく提示される.これは支援のプロの仕事である.一方で,発達障害はその性質から人によって生存可能な環境が限られるため,その細い糸をたぐり寄せる場合は自由な視野もまた必要である.その方が当事者にとって良い場合というのが一定数あるだろう.その場合,支援者の提供する「発達障害者の典型的な将来」は足かせになるのではないか.

 もちろん,これらが有効な子どもが発達障害の子ども多くを占めるのではないかと思う.そうでないと支援体制は作れない.しかし,そこからさらにマイノリティな私のような層にとっては,さらに生きづらくなっていないかという印象である.

 結論としては,分野を絞れば社会で活躍できるような発達障害者は恐らく無視できないくらいおり,彼らはどんどん能力を発揮したほうが良く,そのためには自分で自分の障害を知っていくこと,そして道を選んでいくことが重要である.しかし,そのような側面を発見して拾っていくのは難しく,支援が分厚くなるにつれてそういった機会が失われてしまうのではないか.

 親御さんには,確かに子は厄介であろうが,そういった側面も考えて欲しい.発達障害だからといって必ずしもバカだというわけではない.考えて道を切り開ける可能性のある子だっているはずである.

 もっとも,この議論の多くは健常者についても言えるのだが…

孤独と再度出会うことについて

孤独がまたやってきた.とはいえ自分の交流の下手さから出てきた孤独ではなく,やっていく中で必然的に現れてくる孤独である.

社会人と博士課程の二足のわらじを始めて一年になる.ここ1年は協調に重点を置いていた年だった.

会社においては基本的に人とできるだけ共同作業を少なくしようと思っていたが,一昨年に一年共同作業を回してみて割りといけるということがわかった.そして,ある意味それに安心してしまったのか,人と信頼しあってやっていけるのではないかという直観からもう一年回したのだが,プロジェクトが悪化するにつれてそのような希望的観測は外れ,最終的に休職することになった.今月から復職する.その中で,ある種自身のことは自身で完全に持っておき,人に触れさせないように守っていくということの重要さを改めて実感した.そうでないと,人は人のことを都合よく捉えてしまう.

一方で,大学院は徒弟制であり,コミュニティである.特に私のいる専攻は院生同士の交流を保つ仕組みが手厚い.その中でより多くの知識を吸収し,かつ私の交流の下手さが問題にならないように交流を良くするよう務めてきた.しかしながら,本質的に物事を進めていくためには,自分自身が考えを持ち,それを伝えるための強固な概念と構造を持っていなければならない.逆に,それがないと研究者同士の協働は成立しないのだ.その第一歩を踏み出したとしたら,孤独な領域を一定程度持っていなければならない.特に,私は博士課程を出たら野生の研究者として一人でやっていくだろう身である.なので,博士課程を出る段階でそれはできていなければならない.

まあそんな経緯から,少なくとも今年は孤独を増やしていこうと考えている.Webでのオープンなコラボレーションの進化は,明らかに互いに孤独な人間の協働の仕組みの進化である.そして,それを先導してきたのはソフトウェア開発と学術研究である.そこまでわかっていれば,孤独というのは必然的に選ぶ選択肢になる.かくして私は孤独と再度出会った.

理系コンプレックスと呼んでいるものについて

dlit.hatenablog.com

この記事の内容には totally agree で,文系理系という言葉を使って立ち位置を決めようとすると,現代の学際化した環境ではグッチョングッチョンになります.

ずっと前から「理系コンプレックス」と呼んでいるものがある.2007年に情報通信工学からコミュニケーション研究に転じて以来,「いつか俺は実力の面で理系の奴らに遜色がないということを見せつけてやる」と思い続けて学際的分野で成果を出そうと虎視眈々と機会を伺っている.

元々,東工大附属電子科→電通大情報通信工学科と5年間コンピュータをやってきた.コンピュータというか数理情報科学全般に関心があり,特に割と古典的なテーマであるにも関わらず今も若い学生を惹きつける複雑系分野に関心を持っていた.そのうち人間関係の複雑ネットワークに関心を持ち,さらに社会学やメディア研究に少しずつはまっていったが,基本的にはコンピュータ科学分野でやっていこうと考えていた.

それが狂い始めたのが,学部2年での母の死である.父親は既に離婚していたため,両親がいなくなった格好となった.母に妙な依存を受けていたあまり良くない家庭だったため,私はそれをきっかけに徐々に弱っていった.最終的にうつ状態になり,成績はガタッと落ちていった.

情報通信工学科には学部3年次に「情報通信工学実験」というものがあった.情報工学科や情報科学科なら「演習」となることもあるが,通信が混ざっているので実験である.その実験は毎月レポートを課され,提出できなかったら即留年というものであった.

そして私はレポートを書けなかった.レポート受け取り期限が過ぎるのを家の時計をぼーっと見ながら待ち,酒を浴びるほど飲んでからよし文転しようと決意した.学科を変えるのは制度上2年でしかできなかったので,編入学である.同じ大学の方が基礎科目は共通しているし単位認定の観点から良いだろう.学科は文理融合の人間コミュニケーション学科にする.ついでに金はないので夜間にする.試験は1ヶ月後,がむしゃらに勉強し,試験に望んだ.その年の夜間の合格者は全学科合計で私一人だった.

それ以来,文理融合の環境の中で「俺は文系でやっていく」という固い意志を元に文系の単位のみを取り(「システム工学」は数式バリバリだったな),実験では仕方なく工学系のこともやり,情報社会論で卒論を書いて卒業した.その割にはヒューマンコンピュータインタラクション分野の友人が多く,彼らのやっていることや言っていることを理解するリテラシーもあった.

修士では社会学(エスノメソドロジー)の研究室に入ったが,そこは工学との連携をしている先進的な研究室だった.しかし私の圧倒的な社交性のなさと立ち回りの下手さから共同研究などはせず,しかし似たようなことはしたいので,結局理工学研究科の単位を取り(複雑ネットワークについては学部でさんざんやったので楽勝だった),自分でコードを書き,主は社会学として複合現実感技術のある環境の中での社会的相互行為の研究を進めた.修了直前に情報処理学会の「インタラクション2011」に学会発表の草稿を出したが,当日体調が悪くサボってしまった.アア俺は発表できなかったなとベッドで黄昏れていたら,大きな揺れが襲いかかってきた.

その後いろいろありGISベンチャーでエンジニアになり,4年目になった.

最近,エンジニアをやりながら博士課程に進学した.コンピュータ支援共同作業というヒューマンコンピュータインタラクションの一分野で,もっぱら知識実践の社会学的研究をしている.ついでに論理学からプログラミング言語論につなげることもこっそりやっている.さて学会発表のチャンスがやってきた.図書館情報学とコンピュータ科学の2つ候補があり,どちらでも出したかったのだが,調子を崩してしまい片方に絞ることを考えている.だとしたら,コンピュータ科学の方をやりたいと思ってしまった自分がいる.

私が「文転」を宣言して,社会学を主な専攻としてからも,ヒューマンコンピュータインタラクションという学際的分野に執着し,形式科学としてのコンピュータ科学をこっそり学んでいるのは,それが面白いからというのもあるが,社会学などの「文系の」方法でコンピュータ科学の「理系の」方法と対等に戦える分野だからだ.しかし,それで戦ってどうするのか.当時の情報通信工学科の同期については,もはや「見返してやる」という段階ではない.そもそも皆が博士課程に行ったわけではないし,ある人は就職し,ある人は結婚し,ある人は中退し,ある人は消えた.その多様な進路から考えれば実験で単位を落として社会学を始めたことなどたいしたことではない.あるのは曖昧で独りよがりなコンプレックスだ.

実はそこには文系と理系の違いすらないんじゃないか.まあそれはそうだ.それゆえ,「理系コンプレックス」も原理上は存在しない.文系vs理系ではなく,実際にあるのは工学系の大学を一回ドロップアウトしたというコンプレックスだ.しかし,しばらくはこのままで良いかと思っている.分野に関わらず相手をよく知り,自分を際立てるポイントを見つける手段としては,この程度のコンプレックスを持っておいて損はない.

中学受験について

b-zone-salariedman.hatenablog.com

 なかなか出てこない話題なので興味深かった.俺は10歳で母親と夜逃げしてきた時,中野の四谷大塚(中野校は本校)の入塾テストを受け,一番上のクラスに行った.それ以来,母親は自分がてんかんの発症により大学進学を諦めたこともあり,俺を良い中学に入れるべく全力をつくすこととなった.

 四谷大塚には土日のクラスと平日のクラスがあり,俺は金銭的な事情から(収入は母親の障害年金のみ,生活費は祖母から)土日しか行けなかった.母親の指導は,とにかく問題を解かせたりある項目群を覚えさせ,少しでも間違えたら怒鳴って延々と怒り続け,ちゃんとできるまでやらせるという古典的なもので,当然成果は微妙である.

 一度テストで調子が悪かったとき,俺のテストを破り捨て,怒り狂った.俺は家出し父親を頼って葛飾まで歩いて行こうとしたが,秋葉原駅で道に迷った.(というか今でも地図がないと秋葉原から東京東部に行くのは無理).結局父親に車でピックアップしてもらったが,父親も借金が5000万あったため1日いた後に帰ってきた.

 まあそういうこともあり平日のクラスにも行っていた人間との差は開いていき,あるテストで4番目のクラスに落ちた.当然母親は怒り狂ったがよく覚えていない.その後2番目に戻って受験に臨んだ.あれ,序列とか大したことなかったな.合宿も行かなかったし.まあ序列はあったよね.割りと4番目のクラスの時に1番上のクラスから軽蔑的な目線を浴びたことはあった.成績トップのやつの名前は未だに覚えており,早稲田で社会学修士までは行ったようだ.20年以上かかることになるが,博士を取れば俺の勝ちだ.

 受験校は開成,筑駒城北だった.城北に受かり,残りは落ちた.母親は「金がない」という理由で突然合格を反故にし,区立中学校に進学した.その中学が中野・杉並で最も荒れている学校だと知ったのは13年後であった.その後,祖母の借金が2000万あったのが発覚し,母親はてんかん性精神病を発症して救急車で運ばれるも手術室しか病床がなく,手術室の機材を全部ぶっ壊し家に帰ってきて俺に「お前は基礎がわかっていない,あいうえおから教える」と行ってあいうえおを学んだ.私にはその後半年の記憶はない.