技術者について

明日が技術者としての最後の仕事になるかもしれないので,ここで私が知った技術者というものについて書く.
 技術者は,少なくとも現在存在しないものを作る.このため,最初の段階では作る道筋すらない場合もあれば,試行錯誤を繰り返しても条件を満たすものができないこともある.見かけ以上完成したものがあったとしても,それが問題点をはらんでいると思われる限り,完成だということはできない.そのようなことを全て考慮して始めて納期などを設定できる.
 このため,我々は常に現実的に実現可能なものにしか関わることができない.他の職業の方々なら好き勝手に物事を語ることもできるだろう.しかし我々の世界は狭く,自分が進んできた,手の届く道を手探りでやることしかない.所詮技術者は無力な人間である.
 このため,好きに物を言える立場の職業から比べたら技術者は下等な職業であり,下賤である.無力な我々は他の職業の方々から批判をされ,不満を告げられ,罵倒されるのが当然である.我々は自らを誇らない.社会の中で泥をかぶり,その無力さに蔑まれ,その結果何を得ることもない.我々は自らを誇らない.

「〜は死ぬべき」に対抗するのは「〜は生きていて良い」ではないと思う

今回の虐殺事件は,様々な点で人間の心をえぐり出すものだったと思う.

 私もいくつか思うところはあり,なんとか抑えていたところもあるが,いくつかの記事を読んでこれは看過できぬと思い記事を書くことにした.

zen-iku.jp

zen-iku.jp

d.hatena.ne.jp

 これらの声明や記事は実際にこの事件に関わる大きな社会課題に取り組んできて,その意味で強い主張で発信している,これは非常に重要なことで,物事を進めていくために彼らのような意志をもってやっていくこと,またそれを実際にやっていることには敬意を表する.

 しかし,この主張ははがゆい.

障害のある人一人ひとりの命の重さに思いを馳せてほしいのです。そして、障害の有る無しで特別視されることなく、お互いに人格と個性を尊重しながら共生する社会づくりに向けて共に歩んでいただきますよう心よりお願い申し上げます。

http://zen-iku.jp/wp-content/uploads/2016/07/160726stmt.pdf

 

 「障害」に伴う困難は、たとえ重複障害であったとしても人間のすべてを覆いつくすわけではなく、解消不可能なわけでもない。多くの人たちから支援を受けて、社会のあたたかさを感じながら(しばしば裏切られながら)みんな喜びも悲しみも経験していく。絶望を経由して得られた夢や希望だってある(もちろん本人と家族とでは違いがあるだろうけれど)。

「障害者」のリアリティをもって抗いたい - lessorの日記

 これらは,恐らく実際に障害者の尊厳を守るために戦い,少しずつでも幸福を目指せるように戦ってきた人々の,生の言葉であると思う.しかし,だからこそなのだが,障害者を「外から支援する立場」から逃れることができない.つまり,今回の事件が浮き彫りにした「障害者は死ぬべき」というテーゼは,障害者を支援する人以前に障害者自身が抱えている問題でもあるということを,見過ごしてはいけない.

 現代は「死にたい」と思いやすい時代であると思う.生まれ持ってもしくは後天的に障害を持ちながらも,もしくは健常者でも経済的社会的に追い込まれていてもなんとか生きている友人は多い.私もその一人だ.そして,幾度となく死にたいと考えてきたし,死にたいと告げられたこともある.インターネットはそういった発言で溢れており,そのうちのいくつかは本音だろう.

 「普通」,死にたいと言っている人間は病気として診断され,精神科及び心療内科に通うことが適切とされる.一方で,何が死にたいと思わせたのか,その原因については,医療の範疇でなく,精神科が解決できないことが多い.人は「どんな状況でも生きていて欲しい」とよく言う.しかし,実際に厳しい経験をしている人の視点で見るとなかなか簡単にはそう言えない.

 その中で,誰かと助け合いながら幸せを目指すことは,認められるべきで,誰かに侵害されるべきではない.一方で,障害者についても健常者についても,今当事者が死について考えること,さらには死にたいと考えていることについてもまた認められるべきであり,誰かに侵害されるべきではないと考える.

 これはつまり,「あなたたちは幸福になって良い」「あなたたちは生きていて良い」という言葉もまた過剰な言い分だということを意味する.支援者が支援をする際に,当事者と共有して守っていく最も大切な命題であるとは思う.しかし一旦その外に出ると,「死にたい」と思わせる要素が溢れている手付かずの現実世界が待っている.そこでは,これらは単なるきれい事であるだけでなく,死について考えている人にとっては暴力にすらなる.

 結論として,誰かに安易に「死ぬべき」というのが適切でないと同時に,誰かにその個々の生きていることを考慮せずに安易に「生きること」を推奨するのも適切ではないと思う.まず守られるべきなのは,どう生きるかは自分が決定することで,その中には死ぬことを考えることも含まれるということである.そうでないと「死ぬべき」という攻撃的な主張と向き合うことはできない.

 「実際に死ぬ」ことまで含めて自由なのか,これは難しい問題なのでコメントは差し控える.ただし,我々は皆強制的に産まれさせられた.また,今回の施設において被害者の方々が「どう生きるかを決定できる知性があるかどうか」についてはわからない.そうでない場合決定は難しくなる.私は,祖母が事実上植物状態になった段階で,家や生活を守るために延命治療を拒否した.親族で概ね結論は決まっていたが,誰も言い出せなかったから俺が勧めた.これについては未だに悩んでいる.

発達障害として育っていくことについて

以下は体験に基づくものであり,何ら裏付けはないものなので単に書き留めておく.

 はてなブックマークの新着エントリを追っていると,それなりの頻度で「ママブログ」「子育てブログ」に遭遇することがある.その中で子の発達障害をテーマにしたものが,目につく程度には見られる.具体的な言及は避けるが,これらを読んで感じる違和感というものがある.

 発達障害に関するブログ記事の基本的なテーマというのはこういったものだ.

  • 普段の生活や学校でどういった問題が起きたか
  • 医師とどうやりとりをしたか
  • 特別支援学級に入れることも含め,学校でどう支援の交渉を行ったか

 これらを読んで,私が育った頃に比べたら,非常に手厚い支援が受けられるようになったとは思う.親,医師,学校など組織が一丸となってちゃんとした理解をし,支援していくというのは私のころはなかった.また,例えば2人子どもがいた場合障害の重さによって普通学級と特別支援学級に分ける(これである程度ブログが特定できてしまうかもしれないが)といったように,特性に合わせた支援も行っているようだ.

 しかし,これらの記事を読んで,何か子どもが育っていく上での重要な視点が潰されてしまっているのではないか,というのを漠然と感じる.支援体制が整っていくということは,裏返せば自分の人生の一部を支援体制に任せるということでもある.そこで,何か大切なものを親や学校の都合で簡単に売り渡したりしてはいないか.

 障害を含めて「自分に何ができて何ができないか」という問題は,子ども自身が学んで認識していく問題でもある.その上で自分のライフプランを組み立てていく.逆にそれができないと教育が成ったことにはならないと思う.その上で重要なのは,「何ができて何ができないかということを,試行しながら学んでいく自由」と「ライフプランを自分で決めることのできる自由」の2つであると考える.これらの自由が,支援が手厚くなることにしたがってむしろ奪われてしまうのではないか,というのが基本的な主張である.

 私の経験では,今に至るまで発達障害はとても厄介である.だから,実際に診断されたのは23の頃だがそれまでに既に「何ができて何ができないか」は相当の精度で知っており,それにしたがって将来の進路を決めてきた.

 まず,そもそも将来生きていける可能性が(家庭環境もあるが)少ないので,能力は伸ばしておくに越したことはない.ルールに縛られるのに耐えられないから自由な国立(こくりつの方.くにたちの方だったら多分ダメだった)の高校に行った.鬱病の時期に大学に通えない上に実験で厳密な提出期限を求められたので,さっさと辞めて実験がゆるい夜間の学科に編入した.そして,出社できないのでリモートワークで完全フレックスの正社員という話ができた時に飛びつき,伸ばした能力を活かしてなんとか4年働いている.その上で,基本的に厳しい自己管理が求められる博士課程への進学を「これなら大丈夫じゃないか」と決断した.

 自分で言うのもなんだが,極めて細い糸をたぐり寄せてきた.その年の電通大夜間の編入学は,全学科含めて10人受けて私しか受からなかった.会社にしても今の会社でなかったら恐らく国内に働ける会社はないだろう.博士課程もいろいろあるが,最高のタイミングで入学でき,素晴らしい環境にいると思う.「どうやって今まで生きてこられたのかわからない」と数人に言われたことがあるが,まあそれはこういうことをやってきたので普通にはわからないし,私にも本当のところはわからない.

 もちろん,これらを全てできたところで障害がなくなるわけではない.多く問題を抱えているし,問題が多すぎるので生活の主だったことを医師に告げることになる.人から恨まれたりすることも多い.しかしそれでも,障害を含めて総合的に生き方というものがなんとなく見えてきたのではないかというところである.

 また,「そういう生き方ができたのはお前の障害が比較的軽かったからで,ウチにはウチの事情がある」と言われたらそれはそのとおりだ.というか,そういったスペクトラムを含めてこの障害は構成されている.このことを踏まえて以下のことを懸念している.

 (1)基本的に支援は,障害の解消を基にしたものに見える.その場合,「自分にどういった問題や特性があるか」という重要なことを学ぶ機会を限定されてしまう,もしくは押し付けられてしまうのではないか.

 (2)学校で支援をするということは,将来の選択肢も含めて支援をするということである.その点で,「発達障害者の典型的な将来」がわかりやすく提示される.これは支援のプロの仕事である.一方で,発達障害はその性質から人によって生存可能な環境が限られるため,その細い糸をたぐり寄せる場合は自由な視野もまた必要である.その方が当事者にとって良い場合というのが一定数あるだろう.その場合,支援者の提供する「発達障害者の典型的な将来」は足かせになるのではないか.

 もちろん,これらが有効な子どもが発達障害の子ども多くを占めるのではないかと思う.そうでないと支援体制は作れない.しかし,そこからさらにマイノリティな私のような層にとっては,さらに生きづらくなっていないかという印象である.

 結論としては,分野を絞れば社会で活躍できるような発達障害者は恐らく無視できないくらいおり,彼らはどんどん能力を発揮したほうが良く,そのためには自分で自分の障害を知っていくこと,そして道を選んでいくことが重要である.しかし,そのような側面を発見して拾っていくのは難しく,支援が分厚くなるにつれてそういった機会が失われてしまうのではないか.

 親御さんには,確かに子は厄介であろうが,そういった側面も考えて欲しい.発達障害だからといって必ずしもバカだというわけではない.考えて道を切り開ける可能性のある子だっているはずである.

 もっとも,この議論の多くは健常者についても言えるのだが…

孤独と再度出会うことについて

孤独がまたやってきた.とはいえ自分の交流の下手さから出てきた孤独ではなく,やっていく中で必然的に現れてくる孤独である.

社会人と博士課程の二足のわらじを始めて一年になる.ここ1年は協調に重点を置いていた年だった.

会社においては基本的に人とできるだけ共同作業を少なくしようと思っていたが,一昨年に一年共同作業を回してみて割りといけるということがわかった.そして,ある意味それに安心してしまったのか,人と信頼しあってやっていけるのではないかという直観からもう一年回したのだが,プロジェクトが悪化するにつれてそのような希望的観測は外れ,最終的に休職することになった.今月から復職する.その中で,ある種自身のことは自身で完全に持っておき,人に触れさせないように守っていくということの重要さを改めて実感した.そうでないと,人は人のことを都合よく捉えてしまう.

一方で,大学院は徒弟制であり,コミュニティである.特に私のいる専攻は院生同士の交流を保つ仕組みが手厚い.その中でより多くの知識を吸収し,かつ私の交流の下手さが問題にならないように交流を良くするよう務めてきた.しかしながら,本質的に物事を進めていくためには,自分自身が考えを持ち,それを伝えるための強固な概念と構造を持っていなければならない.逆に,それがないと研究者同士の協働は成立しないのだ.その第一歩を踏み出したとしたら,孤独な領域を一定程度持っていなければならない.特に,私は博士課程を出たら野生の研究者として一人でやっていくだろう身である.なので,博士課程を出る段階でそれはできていなければならない.

まあそんな経緯から,少なくとも今年は孤独を増やしていこうと考えている.Webでのオープンなコラボレーションの進化は,明らかに互いに孤独な人間の協働の仕組みの進化である.そして,それを先導してきたのはソフトウェア開発と学術研究である.そこまでわかっていれば,孤独というのは必然的に選ぶ選択肢になる.かくして私は孤独と再度出会った.

理系コンプレックスと呼んでいるものについて

dlit.hatenablog.com

この記事の内容には totally agree で,文系理系という言葉を使って立ち位置を決めようとすると,現代の学際化した環境ではグッチョングッチョンになります.

ずっと前から「理系コンプレックス」と呼んでいるものがある.2007年に情報通信工学からコミュニケーション研究に転じて以来,「いつか俺は実力の面で理系の奴らに遜色がないということを見せつけてやる」と思い続けて学際的分野で成果を出そうと虎視眈々と機会を伺っている.

元々,東工大附属電子科→電通大情報通信工学科と5年間コンピュータをやってきた.コンピュータというか数理情報科学全般に関心があり,特に割と古典的なテーマであるにも関わらず今も若い学生を惹きつける複雑系分野に関心を持っていた.そのうち人間関係の複雑ネットワークに関心を持ち,さらに社会学やメディア研究に少しずつはまっていったが,基本的にはコンピュータ科学分野でやっていこうと考えていた.

それが狂い始めたのが,学部2年での母の死である.父親は既に離婚していたため,両親がいなくなった格好となった.母に妙な依存を受けていたあまり良くない家庭だったため,私はそれをきっかけに徐々に弱っていった.最終的にうつ状態になり,成績はガタッと落ちていった.

情報通信工学科には学部3年次に「情報通信工学実験」というものがあった.情報工学科や情報科学科なら「演習」となることもあるが,通信が混ざっているので実験である.その実験は毎月レポートを課され,提出できなかったら即留年というものであった.

そして私はレポートを書けなかった.レポート受け取り期限が過ぎるのを家の時計をぼーっと見ながら待ち,酒を浴びるほど飲んでからよし文転しようと決意した.学科を変えるのは制度上2年でしかできなかったので,編入学である.同じ大学の方が基礎科目は共通しているし単位認定の観点から良いだろう.学科は文理融合の人間コミュニケーション学科にする.ついでに金はないので夜間にする.試験は1ヶ月後,がむしゃらに勉強し,試験に望んだ.その年の夜間の合格者は全学科合計で私一人だった.

それ以来,文理融合の環境の中で「俺は文系でやっていく」という固い意志を元に文系の単位のみを取り(「システム工学」は数式バリバリだったな),実験では仕方なく工学系のこともやり,情報社会論で卒論を書いて卒業した.その割にはヒューマンコンピュータインタラクション分野の友人が多く,彼らのやっていることや言っていることを理解するリテラシーもあった.

修士では社会学(エスノメソドロジー)の研究室に入ったが,そこは工学との連携をしている先進的な研究室だった.しかし私の圧倒的な社交性のなさと立ち回りの下手さから共同研究などはせず,しかし似たようなことはしたいので,結局理工学研究科の単位を取り(複雑ネットワークについては学部でさんざんやったので楽勝だった),自分でコードを書き,主は社会学として複合現実感技術のある環境の中での社会的相互行為の研究を進めた.修了直前に情報処理学会の「インタラクション2011」に学会発表の草稿を出したが,当日体調が悪くサボってしまった.アア俺は発表できなかったなとベッドで黄昏れていたら,大きな揺れが襲いかかってきた.

その後いろいろありGISベンチャーでエンジニアになり,4年目になった.

最近,エンジニアをやりながら博士課程に進学した.コンピュータ支援共同作業というヒューマンコンピュータインタラクションの一分野で,もっぱら知識実践の社会学的研究をしている.ついでに論理学からプログラミング言語論につなげることもこっそりやっている.さて学会発表のチャンスがやってきた.図書館情報学とコンピュータ科学の2つ候補があり,どちらでも出したかったのだが,調子を崩してしまい片方に絞ることを考えている.だとしたら,コンピュータ科学の方をやりたいと思ってしまった自分がいる.

私が「文転」を宣言して,社会学を主な専攻としてからも,ヒューマンコンピュータインタラクションという学際的分野に執着し,形式科学としてのコンピュータ科学をこっそり学んでいるのは,それが面白いからというのもあるが,社会学などの「文系の」方法でコンピュータ科学の「理系の」方法と対等に戦える分野だからだ.しかし,それで戦ってどうするのか.当時の情報通信工学科の同期については,もはや「見返してやる」という段階ではない.そもそも皆が博士課程に行ったわけではないし,ある人は就職し,ある人は結婚し,ある人は中退し,ある人は消えた.その多様な進路から考えれば実験で単位を落として社会学を始めたことなどたいしたことではない.あるのは曖昧で独りよがりなコンプレックスだ.

実はそこには文系と理系の違いすらないんじゃないか.まあそれはそうだ.それゆえ,「理系コンプレックス」も原理上は存在しない.文系vs理系ではなく,実際にあるのは工学系の大学を一回ドロップアウトしたというコンプレックスだ.しかし,しばらくはこのままで良いかと思っている.分野に関わらず相手をよく知り,自分を際立てるポイントを見つける手段としては,この程度のコンプレックスを持っておいて損はない.

中学受験について

b-zone-salariedman.hatenablog.com

 なかなか出てこない話題なので興味深かった.俺は10歳で母親と夜逃げしてきた時,中野の四谷大塚(中野校は本校)の入塾テストを受け,一番上のクラスに行った.それ以来,母親は自分がてんかんの発症により大学進学を諦めたこともあり,俺を良い中学に入れるべく全力をつくすこととなった.

 四谷大塚には土日のクラスと平日のクラスがあり,俺は金銭的な事情から(収入は母親の障害年金のみ,生活費は祖母から)土日しか行けなかった.母親の指導は,とにかく問題を解かせたりある項目群を覚えさせ,少しでも間違えたら怒鳴って延々と怒り続け,ちゃんとできるまでやらせるという古典的なもので,当然成果は微妙である.

 一度テストで調子が悪かったとき,俺のテストを破り捨て,怒り狂った.俺は家出し父親を頼って葛飾まで歩いて行こうとしたが,秋葉原駅で道に迷った.(というか今でも地図がないと秋葉原から東京東部に行くのは無理).結局父親に車でピックアップしてもらったが,父親も借金が5000万あったため1日いた後に帰ってきた.

 まあそういうこともあり平日のクラスにも行っていた人間との差は開いていき,あるテストで4番目のクラスに落ちた.当然母親は怒り狂ったがよく覚えていない.その後2番目に戻って受験に臨んだ.あれ,序列とか大したことなかったな.合宿も行かなかったし.まあ序列はあったよね.割りと4番目のクラスの時に1番上のクラスから軽蔑的な目線を浴びたことはあった.成績トップのやつの名前は未だに覚えており,早稲田で社会学修士までは行ったようだ.20年以上かかることになるが,博士を取れば俺の勝ちだ.

 受験校は開成,筑駒城北だった.城北に受かり,残りは落ちた.母親は「金がない」という理由で突然合格を反故にし,区立中学校に進学した.その中学が中野・杉並で最も荒れている学校だと知ったのは13年後であった.その後,祖母の借金が2000万あったのが発覚し,母親はてんかん性精神病を発症して救急車で運ばれるも手術室しか病床がなく,手術室の機材を全部ぶっ壊し家に帰ってきて俺に「お前は基礎がわかっていない,あいうえおから教える」と行ってあいうえおを学んだ.私にはその後半年の記憶はない.

ギークハウスから消えていった人々について

ギークハウス Advent Calendar 2015 15日目

 俺は下手だと思う.人に馴染むことも自分に馴染むこともできなかった.誰かと協調して何かをして楽しむことはあっても,誰かといることそのものには厳しさを感じる.様々なコミュニティを転々としていたが,居着くことはなかった.一度コミュニティ内で中心的になったりするも途中でマンネリ化に耐えられなくなり,消えてしまう.何年も戻ってきて欲しいと言われているところもある.一方で,自分とも折り合いがつかなかった.俺は人生で様々な厳しい経験をした.その厳しい感覚を日常を続けることで薄めていくのが大人のやり方だとすれば,30になってもそれを覚えることは出来ず,その埋め合わせとして新しい到達が非現実的な目標に挑戦することを繰り返している.

 数年前,はてなブックマークなどを見ていて変な集団がいると思った.インターネットでつながってはいるが全員がエンジニアであるわけでも目的もなく,それぞれ雑に秋葉原などに集まったりしていた.そこには下手な人間も多かったし,明らかな様々の問題を抱えた人間もいた.しかしそれはそれなりにやっていっており,話せないなら無口でもよく,問題を起こしたら曖昧に解決していた.そんな集団が一種のハブにしていたのがギークハウス東日本橋だった.

 ギークハウスには,どのコミュニティでもそうであるが,よく来るコア・メンバーというのが曖昧にあった.皆でいろいろやっていくにつれて,周縁的にここに来れば面白い,もしくは誰かと話せると集まってくる人々も増えてきた.俺もその一人だったし,ある時点ではコア・メンバーだったかもしれない.当時はとにかくいろいろなバックボーンの人と会えるのが楽しかった.実際に知り合いは増えたし,その分野はいわゆるギークを超えて多岐にわたる.これがギークハウスの一種の怪しさの一因でもある.

 さて,界隈に集まっていた人々は,元々抱えていた下手が爆発したり,行動が先鋭化してしまって世に問題を起こしてしまったりといろいろあり,ある種の壁にぶちあたったように思える.確かに界隈は広がっていく.ギークハウスもどんどんできていく.しかし,人に見られる範囲も解決できる問題の範囲も限られている.ギークハウスは本物のカオスになり,そして,わけのわからないままギークハウスに関わる人はどんどん増えていった.

 古参,あるいは「老」 -- XXIst Century の最初の10年にギークハウスに関わっていた人々には,様々な問題があったが,先進的で突飛なことに敏感で,下手に寛容な雰囲気があったと思う.それが決定的に破られたのが「起業家を目指すギークハウス」である.彼らは根が真面目で,何かしらの意図を持ってギークハウスを動かしていた.彼らはパーティーを定期的に開く.我々は,思いついた時にやるし,定期的にはだるくなってできない.それが端的な違いで,本質的な違いである.彼らの計画的な行動は,我々のそれよりも速くギークハウスを拡げていった.大量のギークハウスを作った人がおり,もはや絶対数としては XXIst Century の最初の10年よりも,次の5年に集まった人のほうがはるかに多い.

 一方で我々「老」は徐々に散らばっていった.ファのギークハウスは老の雰囲気を残しているが交通の便が悪くどうも集まらない.ある人間はギークハウスとは違ったところでそれぞれがギークハウスと思うところの血脈を残している.場所としては「老」の集まるギークハウスはもはやないと言っても良い.これが「消えていった人々」である.

 3年前あたりか,「ギークハウス総会」というイベントが行われた.「ギークハウス同窓会」というイベントを提案した(提案だけで全部友人に任せた)のも既に2年前である.そのどちらにも「老」ばかりが集まっており,既に統一感というのはないのだなと感じた.そもそも,それを取り戻すための総会だったはずが人は来ず,また ongoing な現象であるギークハウスで「同窓会」が行うというのもあれなのだが,とにかくそっちのが居心地が良かったのだ.

 さて,先ほど新しい真面目な人々と対比させる形で「我々」と述べたが,その実態は複雑である.要はコア・メンバーも周縁的なメンバーもひっくるめてそう呼んでいる.その中には,たまたまその時問題を抱えておりギークハウス界隈にいたという人が多く含まれていた.彼らの多くは5年も経てば既にインターネットでのfollowing, friendなどのつながりのみになってしまった.Facebookで,長らく会っていない当時ギークハウスにいた人の結婚報告などを見ると,彼らがその後まともに社会に戻っていることを理解できる.

 俺から見ると,新しい生き方がうまい人にもついていけず,かといって当時曖昧に下手仲間としてやっていた人々が本当は下手ではなかったという現実も突きつけられている.その中で,本当に下手な人間同士のつながりというのは簡単に切れるものではない.それはそれで良い.人生における一つの宝だとさえ思う.しかし,新しい下手でない人たち,そして下手でなくなって普通の世界に戻っていった人たちのことを思うと,自分が余りに無価値であると感じてしまう.

 ギークハウスはまあそんなものとして,俺のその後について述べると,ギークハウスになじめないままオープンデータという新しいコミュニティに行ったものの,実家の問題を解決していたら精神を病み疎遠になってしまった.そして人との関わりが真空となった状態で,未踏の荒野を開拓するしかないと思い博士課程へと歩を進めたのである.Facebookには,今日も結婚報告が響く.