中学受験について

b-zone-salariedman.hatenablog.com

 なかなか出てこない話題なので興味深かった.俺は10歳で母親と夜逃げしてきた時,中野の四谷大塚(中野校は本校)の入塾テストを受け,一番上のクラスに行った.それ以来,母親は自分がてんかんの発症により大学進学を諦めたこともあり,俺を良い中学に入れるべく全力をつくすこととなった.

 四谷大塚には土日のクラスと平日のクラスがあり,俺は金銭的な事情から(収入は母親の障害年金のみ,生活費は祖母から)土日しか行けなかった.母親の指導は,とにかく問題を解かせたりある項目群を覚えさせ,少しでも間違えたら怒鳴って延々と怒り続け,ちゃんとできるまでやらせるという古典的なもので,当然成果は微妙である.

 一度テストで調子が悪かったとき,俺のテストを破り捨て,怒り狂った.俺は家出し父親を頼って葛飾まで歩いて行こうとしたが,秋葉原駅で道に迷った.(というか今でも地図がないと秋葉原から東京東部に行くのは無理).結局父親に車でピックアップしてもらったが,父親も借金が5000万あったため1日いた後に帰ってきた.

 まあそういうこともあり平日のクラスにも行っていた人間との差は開いていき,あるテストで4番目のクラスに落ちた.当然母親は怒り狂ったがよく覚えていない.その後2番目に戻って受験に臨んだ.あれ,序列とか大したことなかったな.合宿も行かなかったし.まあ序列はあったよね.割りと4番目のクラスの時に1番上のクラスから軽蔑的な目線を浴びたことはあった.成績トップのやつの名前は未だに覚えており,早稲田で社会学修士までは行ったようだ.20年以上かかることになるが,博士を取れば俺の勝ちだ.

 受験校は開成,筑駒城北だった.城北に受かり,残りは落ちた.母親は「金がない」という理由で突然合格を反故にし,区立中学校に進学した.その中学が中野・杉並で最も荒れている学校だと知ったのは13年後であった.その後,祖母の借金が2000万あったのが発覚し,母親はてんかん性精神病を発症して救急車で運ばれるも手術室しか病床がなく,手術室の機材を全部ぶっ壊し家に帰ってきて俺に「お前は基礎がわかっていない,あいうえおから教える」と行ってあいうえおを学んだ.私にはその後半年の記憶はない.

ギークハウスから消えていった人々について

ギークハウス Advent Calendar 2015 15日目

 俺は下手だと思う.人に馴染むことも自分に馴染むこともできなかった.誰かと協調して何かをして楽しむことはあっても,誰かといることそのものには厳しさを感じる.様々なコミュニティを転々としていたが,居着くことはなかった.一度コミュニティ内で中心的になったりするも途中でマンネリ化に耐えられなくなり,消えてしまう.何年も戻ってきて欲しいと言われているところもある.一方で,自分とも折り合いがつかなかった.俺は人生で様々な厳しい経験をした.その厳しい感覚を日常を続けることで薄めていくのが大人のやり方だとすれば,30になってもそれを覚えることは出来ず,その埋め合わせとして新しい到達が非現実的な目標に挑戦することを繰り返している.

 数年前,はてなブックマークなどを見ていて変な集団がいると思った.インターネットでつながってはいるが全員がエンジニアであるわけでも目的もなく,それぞれ雑に秋葉原などに集まったりしていた.そこには下手な人間も多かったし,明らかな様々の問題を抱えた人間もいた.しかしそれはそれなりにやっていっており,話せないなら無口でもよく,問題を起こしたら曖昧に解決していた.そんな集団が一種のハブにしていたのがギークハウス東日本橋だった.

 ギークハウスには,どのコミュニティでもそうであるが,よく来るコア・メンバーというのが曖昧にあった.皆でいろいろやっていくにつれて,周縁的にここに来れば面白い,もしくは誰かと話せると集まってくる人々も増えてきた.俺もその一人だったし,ある時点ではコア・メンバーだったかもしれない.当時はとにかくいろいろなバックボーンの人と会えるのが楽しかった.実際に知り合いは増えたし,その分野はいわゆるギークを超えて多岐にわたる.これがギークハウスの一種の怪しさの一因でもある.

 さて,界隈に集まっていた人々は,元々抱えていた下手が爆発したり,行動が先鋭化してしまって世に問題を起こしてしまったりといろいろあり,ある種の壁にぶちあたったように思える.確かに界隈は広がっていく.ギークハウスもどんどんできていく.しかし,人に見られる範囲も解決できる問題の範囲も限られている.ギークハウスは本物のカオスになり,そして,わけのわからないままギークハウスに関わる人はどんどん増えていった.

 古参,あるいは「老」 -- XXIst Century の最初の10年にギークハウスに関わっていた人々には,様々な問題があったが,先進的で突飛なことに敏感で,下手に寛容な雰囲気があったと思う.それが決定的に破られたのが「起業家を目指すギークハウス」である.彼らは根が真面目で,何かしらの意図を持ってギークハウスを動かしていた.彼らはパーティーを定期的に開く.我々は,思いついた時にやるし,定期的にはだるくなってできない.それが端的な違いで,本質的な違いである.彼らの計画的な行動は,我々のそれよりも速くギークハウスを拡げていった.大量のギークハウスを作った人がおり,もはや絶対数としては XXIst Century の最初の10年よりも,次の5年に集まった人のほうがはるかに多い.

 一方で我々「老」は徐々に散らばっていった.ファのギークハウスは老の雰囲気を残しているが交通の便が悪くどうも集まらない.ある人間はギークハウスとは違ったところでそれぞれがギークハウスと思うところの血脈を残している.場所としては「老」の集まるギークハウスはもはやないと言っても良い.これが「消えていった人々」である.

 3年前あたりか,「ギークハウス総会」というイベントが行われた.「ギークハウス同窓会」というイベントを提案した(提案だけで全部友人に任せた)のも既に2年前である.そのどちらにも「老」ばかりが集まっており,既に統一感というのはないのだなと感じた.そもそも,それを取り戻すための総会だったはずが人は来ず,また ongoing な現象であるギークハウスで「同窓会」が行うというのもあれなのだが,とにかくそっちのが居心地が良かったのだ.

 さて,先ほど新しい真面目な人々と対比させる形で「我々」と述べたが,その実態は複雑である.要はコア・メンバーも周縁的なメンバーもひっくるめてそう呼んでいる.その中には,たまたまその時問題を抱えておりギークハウス界隈にいたという人が多く含まれていた.彼らの多くは5年も経てば既にインターネットでのfollowing, friendなどのつながりのみになってしまった.Facebookで,長らく会っていない当時ギークハウスにいた人の結婚報告などを見ると,彼らがその後まともに社会に戻っていることを理解できる.

 俺から見ると,新しい生き方がうまい人にもついていけず,かといって当時曖昧に下手仲間としてやっていた人々が本当は下手ではなかったという現実も突きつけられている.その中で,本当に下手な人間同士のつながりというのは簡単に切れるものではない.それはそれで良い.人生における一つの宝だとさえ思う.しかし,新しい下手でない人たち,そして下手でなくなって普通の世界に戻っていった人たちのことを思うと,自分が余りに無価値であると感じてしまう.

 ギークハウスはまあそんなものとして,俺のその後について述べると,ギークハウスになじめないままオープンデータという新しいコミュニティに行ったものの,実家の問題を解決していたら精神を病み疎遠になってしまった.そして人との関わりが真空となった状態で,未踏の荒野を開拓するしかないと思い博士課程へと歩を進めたのである.Facebookには,今日も結婚報告が響く.

この世界への関心を諦めない人に博士課程はオススメ

この記事は博士課程 Advent Calendar 2015 の1日目のエントリです.参加したい人はどうぞ.

Abstract

 面白い研究はやめられないから,社会人だろうがなんだろうが博士課程行くしかないっしょ.その間の苦労や,その後のことはしらんがね…

自己紹介

 今年の4月に図書館・情報学の博士課程に入学したものです.社会学修士を出て一旦CTOやエンジニアになり,会社に籍を置きながら入学しました.会社が「勤務先自由,完全フレックス」なので,研究も続けられるという形になりました.なので,学部からプロパーな方や,会社でR&Dをやっていて,それに役立つ研究をするというTypicalな博士課程の学生とはちょっと違います.

 もっとも,海外の図書館情報学社会学,計算機科学の博士課程では,LinkedInなどを見る限り一度社会に出て3年位たって大学に戻ってくるパターンが散見されるので,そういう点では正社員3年目ですし1つの節目かなと思います.

 やっている研究は,Webなどでオープンな参加ができるサービスにおいて,人々に役に立つ知識というのがどうやって作られているのかについて,社会学の方法を使ってアプローチしています.今は,Webエンジニアだと誰もが使ったことのあるStack Overflowについて,質問と回答という行為の観点から研究しています.といっても非常に荒削りで,そもそもこれは会話のような普通の行為と同じ扱いをしていいのか,という原理的なところから既にわかっていない.完全に手探りです.具体的な研究の話は別エントリで.

何で博士課程に

 ンーまあ修士を出た時は,あそこも非常にいい研究室に大学を変えて飛び込んだのですが,自分の能力のなさに絶望して博士無理…ってなりましたね.震災で修了式もなかったし,実質フリーランスをやっていたら1年後に正社員として雇ってもらえました.

 でまあエンジニアも向いてなかった.向いてないというと私に親しい同僚やエンジニア界隈の友人などからすると反論があるかと思うのですが,主な問題はコミュニケーション.最初はブチ切れて案件を外されてしまったりもしたが,流石にそういうことはなくなり,良い落とし所や交渉による解決をするようになった.しかし,疲弊するし得意な人に比べたら全然駄目.一方で技術はというとそこそこはできるが伸びしろはないように思える.GISデータベースもWebGLもオープンデータポータルもやった.しかし,そこからさらに高度なことや,複雑なものを作るために構造を与える作業をやろうとすると限界があるだろう.

 まあそんな感じで微妙だったのですが,研究会にはちょくちょくと顔を出していました.今お世話になっている教授とも,アメリカから帰ってきてからそこそこ話したりゼミに出たりもしていました.ただ,研究としてやっていくかというと,社会人という立場もあり,何よりゴールがとても見えない.

 そんな自分を後押ししたのが,実家の破綻でした.もともと片親が亡くなって両親がいない状態で祖母の家にお世話になっていたのですが,叔父が事実上破産したので借金が降りかかってくる可能性があってどうにか副業で稼いだり,叔母が亡くなったり,最後には一緒に助けあっていた祖母の体調が急激に悪くなり,介護の甲斐なく亡くなってしまいました.今は一人では広すぎる実家に暮らしています.

 その間,仕事すら手につきませんでした.そこで感じたのが,このまま人生が良くなることはないし,次にこれくらいの大きなことが起こったらもう新しく何かをすることはできなくなる.そこで今一番やりたいことをとにかく何が何でもやろうと思いました.それが博士課程でした.ちょうどお世話になっている教授が博士課程を取れるようになったタイミングだったのもありました.そして,つたない研究計画書を書き,面接で慌て,叔父の借金は降りかかってこなかったのでその分浮いた金を入学金につぎこみ,今博士課程にいます.

社会人博士ってどうよ

 いくら「勤務先自由,完全フレックス」とは言っても,結局Web案件をやっているので,忙しさとしてはWeb屋とあまり変わりません.つまり暇な時と忙しい時がある.暇な時は結構進みます.特に理論的な洋書の講読や,論文のサーベイ,分析などまとまった時間が必要な局面がいろいろあるので,1日何時間とか決めないでこの日は仕事,この日は研究と比重を決めてやっています.逆に,それができない企業だと自己管理は圧倒的に難しくなると思います.そういう方もいますが,なんでできるのかわからない.

 忙しい時は,お察しくださいと言いたくなりますが,一言で言えばミンチです.学会投稿の締め切りと案件の締め切りがバッティングした時は死ぬかと思いました.しかし,やると決めたからにはどっちかを捨てる訳にはいかない.あれっ,何かおかしいぞ?と思った時は実際におかしく,草稿を教授に見てもらっている間全力でコードを書きます.そして草稿のリプライが来た直後に案件のミーティングが始まります.

 なんだろう,自己管理が大切ということをよく聞きますが,ここまでくると例えばTodoリストを作って,見た段階で心が折れます.あ,あとたまに倒れます.私は4日以上まともに睡眠を取らないのは無理です.これは迷惑をかけてしまうのでどうにかしないといけません.

 しかしながら,初の学会発表も無事に終わり,案件も納品し,少しずつこの先の見通しが広くなってきました.話もどんどん高度になってきており,一旦落ち着いたらまあ良いかなーという感じ.できないほどではない.本当に駄目な時がきたらまあ…

博士課程が何を与えるか

 面白さ.それ以外にないと思います.

 博士課程を出た後のキャリアパスについては,私は企業に籍を置いている以上一定以上のことは言えません.友人が博士を取って同じような会社に入った時は(おいおい…)と思いましたが,まあそんなもんかと思います.アカポスはどうなんでしょうねぇ…大学教員ですが,事務仕事が多いため「勤務先自由,完全フレックス」でようやく働けている私は全く向いていないと思います.

 その後を考えるとしたら,生き延びながら金がかからない研究を継続するのが現実的かなと思っています.その点でオープンサイエンスには可能性があり,先日も国会図書館のハッカソンでいろいろやってきました.あと,今の研究は教授の指導もあるものの,ほぼ完全にオープンサイエンスの環境でやっています.Stack Overflowの全てのQ&Aはクリエイティブ・コモンズライセンスで公開されており,DBのダンプも提供されています.

 では,社会人にとって博士課程が何を与えるか.世の中にいると,やはり「研究としてこのテーマをやりたい」というのが出てきました.弊社や私が関わっているコミュニティでの活動は,オープンソースやエンジニア同士,もしくはエンジニアと他の人々とのオープンな協働に関連するものが多く,その意味で研究と普段の活動はリンクしています(最近は忙しいのでコミュニティ活動まで手が回りませんが).

 その中で,「これってこうだよね」とか「コミュニティでこういうことが起きていて,こうすべき」みたいな議論になることが多いのですが,研究をしていた身からすると雑に見えてしまう.「雑なのにうまくいっている」というのは本質の一つなのですが,やはりちゃんと調べたくなってしまうし,そこまできたら研究をせざるを得ない.かといってそれがコミュニティに貢献できるかというと微妙です.

 なんかそうやってバッサバッサ研究と社会の関係を切っていくと,結局面白さでやっており,その面白さを得るにはかなり厳しくてもやるしかないなという感じでやっています.私は,この世界への関心を諦めない.

あとがき

 こう書いてみると,世によくある博士を出たら未来がないとか,与えられたテーマの研究への関心を失って終わってしまったとか,社会に出たら研究は無理とか,そういったこととは違うことをしているなと改めて思う.一方で,「研究楽しい!!」と将来を考えずやっていっている人も,なんだかんだで親が裕福だったり特別な才能があったりして続けられているフシはある.その中で私をポジショニングしてみると,うん,人生捨ててるなあ.まあでもやめられないじゃん.今のところは以上.その後のことはわかりません.

圧倒的な人間についていくことについて

私がどうやっても到達できない次元に,1年で到達できる人間はいる.その上でどう生きるか.

 何年も気にかけていたことがある.前の記事で書いた事例なのだが,2006年に失恋した際に,もはや自分には認知すらできない次元で恋愛という戦いが行われていたと感じた.私は高円寺で呑んだくれ,ステージの上にいる人間と下にいる人間は違うと愚痴った.今はなきバーのマスターは,そんなものはない,人に大きな違いはないと返した.その界隈では,人は皆似たようなもので,それぞれ生きていくという感じで,それが一般的な認識なのだろうと思う.

 一方で,圧倒的な次元で戦っている人間がいるという確信は,日に日に増していった.学問で言うと計算機科学,哲学,社会学,仕事で言うとプログラミング,執筆などいろいろ渡り歩いたが,やはり私の10倍の能力を発揮している人間はいる.そして,私自身も他の人の10倍の能力を発揮することもある.プログラミングの一部の領域や,論理学,社会学の分析などでたまにセンスを発揮することがある.

 その程度ならまだ良い.失恋して呑んだくれてから10年経ったが,あっという間だった.10倍の能力がある人の1年には,10年かけて追いつけば良い.もっと少ない時間でも,何倍かやれば良い.それは恐らく努力でどうにかなりうる領域であり,少なくとも一定の訓練をすれば模倣まではできるだろう.私に本当にセンスがなく,凡人未満の領域の場合は,まあ諦める.

 しかし,学術や技術の進歩を見るに,私の100年分の進歩を1年で,もしくは一瞬で成し遂げた人というのは一定数いる.そして,そういった人間は偉人としてまとめられた過去のものではなく,現在もそれなりにおり,しかもそんなに遠くない関係にある.一定の能力を持った人間のコミュニティの最も凄い人間から,さらに数人たどれば,そういった人間がいる.会ったりもできる.

 私は,彼らに追いつくのに100年をかけることはできない.死んでしまうからだ.頑張ってもそこまで縮まらないだろう.そこで諦めることもできる.「私ら凡人は普通にやっていこう」みたいに言うこともできる.実際に,圧倒的な才能の壁にぶち当たって挫折する人を多く見てきた(それこそが,天才がいることの証明でもある).

 しかしながら,彼らのやっている領域についてある程度センスがあり,彼らのアウトプットを一部でも理解でき,それを利用したり考えたりできると,その魅力に取り憑かれてしまう.その高い世界を,同じ世界を見ることはできないにせよもっと高い世界を見てみたいと思ってしまう.

 そうなったら,もはや彼らに「天才」といったレッテルを貼って遠ざけることは適切ではない.むしろ,彼らにかじりついていって,自分のできる限りの世界を見てみたいという一種の執念にかられ,やっていくしかなくなる.これはどうしようもない.壁はある.圧倒的な才能もない.しかし,私はその場にいつづけることを選ぶ.あ,人間関係がアレになった場合は除きます.社会怖いですね.

 そうすることで,分相応に生きることと比べて何が良く,どんな利益があるか,と言われるとまあ微妙である.ちょこっと圧倒的な成果を出したり,応用するには良い環境だろうが,恐らく環境が良いだけで成果そのものの質はあまり変わらないだろう.一方,やはり圧倒的な環境にいると消耗するし,自分の無力さもまあ感じる.その環境に時間や人生を使うコストもかかる.やはり同じ能力を持った人々と関わったほうが楽だ.というところまでは損ばかりである.

 結局はそれを肯定するのは,そこにある圧倒的な世界そのものだと思う.凄いことが行われていて,それに少しでも関われて,人生の一部となる.そういったことの良さは他には替えられないし,これを味わえないなんて損だと思う.実際は他の人にとって損でもうらやましくもないのだろう.そんなある意味での独りよがりな世界に今日も旅立っていくのである.

理系単科大学生の恋愛遍歴について

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懐かしいですね.私は電通大でしたが,いろいろ頑張った結果全然だめでした.後学のために過去を振り返ってまとめます.辛いので短めに.一瞬で終わったのは除きます.

(1)同じ学科の女性

 同じ学科同士の仲良しオタクグループみたいなところにいました.そこに1人女性がいて,その方を好きになってしまったんですよね.ちょっと今で言うオタサーの姫感はありましたが.学内で普通にすれ違ったら話してくれたりするので,どんどん好いていきました.ある日突然メールで告白し,「ごめん,そういう対象として見ることができない」と返信が来て終わり.

(2)サブカル界隈で知り合った女性

 新宿にロフトプラスワンというサブカル系トークライブハウスがあるのですが,そこで出会い系イベントがありました.2chのオフ会にそこに出入りしていた方がいたので,気になって行ってみて,割と女性と仲良くなることはできました(理系だからすぐ専門的な話で盛り上がってしまって話しかけにくいみたいなことは言われた).その中で騒動があって(サブカルは本当にクソ),その当事者の女性をなぐさめていたらそのまま好きになってしまいました.中野のメイドカフェでバイトをしており,私が中野に住んでいる関係で定期的にお茶などでもしており,そこそこ仲はよかったはずなのですが(私基準です.一般的な「仲が良い」よりかなり遠いです),騒動の別の当事者が 2ch にその女性の誹謗中傷を書いてるということで相談され,スレを見てみたところ,その女性はイベントの主催者と付き合っていました.あ,終わった.

(3)某政治活動家周りで知り合った女性

 2007年に政治の季節が来ていて,そこで女性と知り合いました.そこそこ仲が良くはなり,大学でこけて顎を骨折して入院した時にお見舞いに来てくれたりもしたのですが,当時持っていた携帯のメール機能が壊れていて,間違えて空白メールを複数送ってしまい,終わり.これは辛かった.

(4)ニコ動界隈で知り合った女性

 2008年なので当時は「ニコ生で出会い」とかよりは全く洗練されていませんでした.「日記」タグで各自やっていっている人々がいて,ニート生活保護,障害者などなどバラエティに富んでいましたが,集まろうということで何度か集まった.何回目かでその女性が来たのかな.やばい人間が集まる中で割と普通の人だったので,揉め事や炎上が多発する中で距離を置いて,俺とは連絡をとり続けていた.あのあとどうなったんだっけな,なんか気乗りしなくて終わり.

■その後どうなったか

 文系の大学院に行き,適当に酔ってアプローチしたところ適当すぎて,すれ違う際に「お疲れ様です」と言ったら「何がお疲れ様ですだよ」と言われるようになったり,吹奏楽をやっている女性を好きになってアアーグアー(略)まあアレだ,現在進行形で気になっている女性はいるが,別に普通に仲良くなれそうだったけど怖くてあまり話せないくらいだし,そろそろ修了でいなくなってしまうから何もなく終わりかなーというくらいのトラウマはある.その女性には幸せになってほしい.

■追記

 書かなきゃよかった…

minghai 氏の訳に対する態度について

ついでなので.

minghai 氏の訳についての takeda25 氏の主張

minghai氏版はですます調で一見親しみやすく、中身が腐っていることがすぐにはわかりません。

については完全に同意している.

 基本的に, takeda25 氏の主張がいかにまずいかについては,ブログ記事のアナロジーで考えていた.例えば滅茶苦茶な主張をしている人やワードサラダに近い滅茶苦茶な文章を書いている人というのは一定数いるのだが,そいつらは排除されるべきではない.極左・極右の対立ですら,相手の陣営を「消えろ」と主張することはしない.その観点で, takeda25 氏は言い過ぎだと考えている.

 さて,その観点で, minghai 氏の訳と訳に対する態度を考えると,ブログ記事で例えるならば「言ってることは滅茶苦茶だけどコミュニケーション能力はあるから皆にうけるようなものを書き,批判はスルーする」ようなものなのではないか.私はそういう態度については強い嫌悪を覚える.

takeda25 氏の論調が気に食わない理由について

個人的な意見をまとめた.まず,

  • SICPを訳し直したことについては素晴らしいことである.
  • 駄目な訳を批判し,さらには攻撃することには問題はない.
  • 駄目な訳を「公式な場」で「完成品」として出すべきではない.

しかし,

  • ブログや github において,完全に駄目に近いものであったとしても,それを世に出すことを批判すべきではない.

minghai 氏の訳は売られているわけでもないし,公式の訳でもない.ただ流行してしまっただけだ.それには, minghai 氏が「完成品」としてこれを世に出してしまったこと(これはあまり良くない),またその希少性など様々な理由があるだろう.しかし,「駄目な訳が世に広く出回ってしまった」ことは,環境のせいであり,それを minghai 氏のせいにして責めるような論調にすべきではない.むしろ,人に見てもらって批評される場としてのブログなどの「非公式」な「間違えることのできる」場所を窮屈にすることの方が害ははるかに大きいと考える.もちろん,これは takeda25 氏がそのような意見を表明する自由を害するものではない.